安中城

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概要・歴史・観光・見所

安中城概要: 安中城の築城は永禄2年(1559)、安中重繁(忠政)安中城によって築かれたのが始まりと伝えられています。安中氏は、当地に土着した土豪で、貫前神社(群馬県富岡市一宮)が所有している兜に永正4年(1507)安中宮内大輔顕繁の銘がある事から少なくとも室町時代には一定程度の版図を築いていたと思われます。当初は山内上杉氏に従っていましたが、天文15年(1546)に発生した河越夜戦で小田原北条氏に大敗した事で没落した為、安中重繁(忠政)は箕輪城の城主長野業政に従いました。武田信玄の上野国侵攻が顕著になるとそれをに備える為、重繁(忠政)は松井田城に入り、安中城には嫡子忠成を城主にして防衛ラインを築きます。

信玄は中継地点に陣城を築いてラインは分断し、永禄7年(1564)に攻撃を強めると忠成は降伏し安中城は落城、松井田城の忠政は最後まで抵抗しますが最後は自刃して果て、永禄9年(1566)には長野氏の箕輪城も落城しています。その後、忠成は許され武田家に仕えますが天正3年(1575)、長篠の戦いで討死にした事を受け安中城は廃城となります。

【 安中藩の藩庁 】−慶長19年(1614)に井伊直勝が安中城に3万石で入封、本来、直勝は徳川家康の側近で名将として誉れ高い井伊直政の長男として厚遇される立場でしたが、原因不明(諸説有り、形式上は病弱だったとされますが、結果的に72歳まで生きているので当てはまらず、家臣内の対立を治める事が出来なかったとも云われています。)の不遇によって本藩である彦根藩(滋賀県彦根市)18万石の内の15万石を腹違いの弟である井伊直孝(当時は白井藩主)が継ぎ、事実上排斥される形で3万石が分知され安中藩を立藩しています。

直勝と跡を継いだ井伊直好は本城となる安中城やその城下町も積極的に再整備しますが正保2年(1645)、直好が西尾藩(愛知県西尾市)に移封となり、以後、水野氏(2万石:元綱・元知)、堀田氏(2万石→4万石:正俊)、板倉氏(1万5千石:重形・重同)、内藤氏(2万石:政森・政里・政苗)、板倉氏(2万石→3万石:勝清・勝暁・勝意・勝尚・勝明・勝殷)と藩主が代わり明治維新を迎えています。明治4年(1871)に安中藩が廃藩になると、それに伴い安中城も廃城となっています。

【 安中城の縄張り 】−安中城は九十九川と碓氷川に挟まれた10m程の高台に築かれた城郭で、平山城と平城の中間位の印象を受けます。概ね2万石から3万石の大名が居城した為、江戸時代当初は陣屋構えで、元禄15年(1702)に内藤政森が城主格に列すると城郭として再整備され、本丸以外に2ノ丸や主要寺院である西広寺、大泉寺などを囲む郭、家臣達の武家町を囲む郭などが設けられたと思われます。

明治維新後に廃城となり多くの施設が取り壊され、土塁、掘といった遺構も次第に姿を消し、現在は小学校や文化センターが建てられた他は宅地化されほとんど遺構は見られません。安中城の現存する遺構としては城下町の鎮守である熊野神社の神門(神社山門)として東門が移築されています。

安中城:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


安中城:ストリートビュー

安中城:写真

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独り言
勉強不足の為か?思った以上に安中城の遺構を見つける事が出来なかった。玉石垣は武家屋敷の遺構のようだが新しいものも混在し、どれが昔のものかは自信が持てない。移築城門と伝わる熊野神社の神門も見学したものの、柱が思ったより細く、戦闘時には容易に突破されそうな印象を持ちました。


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