平井城(藤岡市)概要: 平井城は当時の関東管領である上杉憲実の命で長尾忠房が永享10年(1438)に築いたのが始まりと言われています。応仁元年(1467)、上杉顕定によって大改修され、山内上杉家の居城(関東管領府)として関東での最重要拠点の1つになりました。しかし、山内上杉家は文明8年(1476)以来、内紛などで徐々に弱体化し、明応3年(1494)に扇谷上杉定正の落馬によって一応統一が成されますが永正4年(1507)には越後守護代長尾為景が反乱した事もあり顕定が自刃、跡継ぎ争いでは領内がさらに混乱しました。そのような中、永禄4年(1530)上杉家をまとめた上杉憲政が関東管領職に就きましたが天文15年(1546)の河越夜戦で北条軍に敗れ、天文16年(1547)の小田井原の戦で武田家に敗れた事で急速に勢力が衰えました。
天文20年(1551)、北条氏による上野国侵攻が行われ、国境付近で行われた神流川合戦で大敗、平井城に立て籠もり一時膠着状態となりますが天文21年(1552)、関東での戦線が維持出来ず憲政は長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り春日山城(新潟県上越市)へ逃れ平井城には嫡子の龍若丸を残しました。
しかし、家臣達は上杉家を裏切り龍若丸を差し出し開城、龍若丸はもちろん、逆賊として家臣達も斬首されました。その後、謙信の力を借りて平井城を奪還しますが厩橋城(前橋城)を関東における拠点とした事で永禄3年(1560)に廃城となります。
平井城は関東管領の居城として規模が大きかったとされますが平城だった事で実戦的ではなく、背後に平井金山城(山城)を配し防衛ラインを築きました。本丸を中心に西側に二の丸、北側に三の丸、南側には鮎川が天然の外堀として機能した為、少なくともそれ以外の3方には2重、もしくは3重の土塁と堀とで囲われていたと推定されています。
現在は城域のほとんどが宅地化と畑地となり多くの遺構が失われ一部の土塁と堀を残すのみとなっています。現在は城址公園として整備され平成11年(1999)に群馬県指定史跡に指定されています。
平井城:上空画像
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