伊香保温泉(群馬県渋川市)・歴史:概要 伊香保温泉の開湯には諸説あり垂仁天皇の御代(紀元前29年〜紀元70年)に発見されたとも、天平年間(729〜749年)に行基菩薩によって開湯されたとも云われています。7世紀後半から8世紀後半かけて編纂された万葉集では伊香保の地名が度々記されていて温泉の有無は分かりませんが地域的には知られていたようです。南北朝時代に編纂された「神道集」によると大宝元年(701)、恵美僧正が霊夢の御告げにより石楼山の北の麓の源泉を発見したのが始まりとされ男神の伊香保大明神が御湯守護の為に鎮座したことが記されています。
現在の伊香保温泉の町並みが形成したのは戦国時代、長篠の合戦の後で敗れた武田兵の傷を癒す為、武田勝頼が家臣である真田氏に命じて源泉から効率的に温泉を宿に引き込むように計画したのが始まりとされます。源泉から直接湯屋に温泉を引き込む為、傾斜地を階段状に造成、中央に湯樋を通し左右を短冊状に区画したとされ、その形態は石段街として現在でも受継がれています。
伊香保温泉は特に子宝の湯として有名で水沢観音(水沢寺)も子宝に御利益があると信じられていた事から両方を一緒に詣でる女性客が多かったとされ、江戸時代以降になると三国街道の裏往還である伊香保街道が開削、一般の湯治客の他にも旅人や物資の運送業者などの利用も増え、特に江戸時代後期には榛名神社を信仰する榛名講が飛躍的に広がり全国からの参拝者も伊香保温泉を利用しました。又、高崎藩の藩主安藤重長も湯治に訪れ病を癒しています。
明治時代に編纂された諸国温泉功能鑑(温泉番付:江戸時代後期の諸国温泉功能鑑の改訂版)では上毛伊香保ノ温泉として番付では無く行司役として記載されています(文化14年:1817年に製作された諸国温泉功能鑑の亜流と思われる嘉永4年:1851年版では東之方前頭に格付けされています。)。明治時代に入ると夏目漱石、竹久夢二、野口雨情などの文人墨客なども訪れ飛躍的に知名度が全国区に広がり、当時のハワイ国総領事ロバートウォーカー・アルウィンは、伊香保温泉に別荘を構え「ハワイ国公使の別荘」と呼ばれました。
現在は近代的な建物に建て替えが進んでいますが、階段の両側には温泉宿の他、土産屋や飲食店が建ち並び伊香保温泉独特の風情ある町並みを形成し温泉街の最大の見所となっています。伊香保温泉の最上部には上野国十二社の三ノ宮で温泉街の鎮守でる伊香保神社が鎮座し平安の時代から歴史の変遷を眺めています。又、伊香保温泉の名前の由来は諸説ありますがアイヌ語のイカホップ(あたたかい湯・たぎる湯)からきているそうです。伊香保温泉は草津温泉、四万温泉と共に上毛三名湯に数えられています。
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