館林藩

  群馬県:歴史・観光・見所(ホーム)群馬県の城下町>館林藩
館林藩・歴史・観光・見所
館林藩概要: 天正18年(1590)小田原の役後、関東に移封になった徳川家康に従い四天王の一人榊原康政が館林10万石の領主となったのが最初で榊原家3代で館林城をはじめ領内整備が行われました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、後の2代将軍となる徳川秀忠に従軍し、中山道を西上、第二次上田合戦に参戦するものの大きな戦果を挙げる事ができませんでした。結局、本戦である関ヶ原にも遅参した事から東軍方の大名が軒並み倍増したにも関わらず石高の加増がありませんでした(水戸藩に加増移封の話があったものの、遠慮したとの話もある)。2代榊原康勝が元和元年(1615)に死去すると、庶子である平十郎(勝政)がいたものの幼少だった事もあり後継ぎとは認められず断絶の恐れがありましたが、大須賀家に養子となっていた実兄忠次が榊原家を継ぐ事になり相続が認められています。

寛永20年(1643)に3代榊原忠次が白河藩(福島県白河市)14万石で移封になると一時廃藩となりましたが、翌年、松平乗寿が6万石で入封し立藩、寛文元年(1661)には徳川綱吉(4代将軍家綱の弟)が25万石で藩主に就任しています。徳川一族が藩主になった事で、館林城はそれに相応しい大城郭へと拡張整備され、それに伴い城下町も活況に呈しましたが、綱吉自身は江戸に留まった為、金田正辰、大久保忠辰などが城代として赴任しています。延宝8年(1680)、綱吉は将軍職を継いだ為、館林藩には息子である徳松が引き継ぎましたが天和3年(1683)に死去したことで再び廃藩となり館林城も廃城、城郭は徹底的に破却されたそうです。

その後、宝永4年(1707)まで幕府直営の天領となり、松平清武が2万4千石で入封し再度館林藩を立藩、宝永5年(1708)から再び館林城の築城が行われましたが、費用が嵩み重税を農民に課した為、度々騒動が発生しています。その後、太田家、井上家、秋元家が藩主が交代して明治維新を迎えますが、何れも短期間だった為、安定的な藩政が行われることが少なかったと言えます。戊辰戦争では新政府軍に組みし東北地方へ転戦、戦功をあげ1万石加増されています。


  スポンサーリンク
 

館林藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代榊原康政1590〜160610万石 
2代榊原康勝1606〜161510万石 
3代榊原忠次1615〜164311万石 
初代松平乗寿1644〜16546万石 
2代松平乗久1654〜16615.5万石 
初代徳川綱吉1661〜168025万石 
2代徳川徳松1680〜168325万石 
初代松平清武1707〜17245.4万石 
2代松平武雅1724〜17285.4万石 
3代松平武元17285.4万石 
初代太田資晴1728〜17345万石 
初代太田資俊1740〜17465万石 
初代松平武元1746〜17796.1万石 
2代松平武寛1779〜17846.1万石 
3代松平斉厚1784〜18366.1万石 
初代井上正春1836〜18456万石 
初代秋元志朝1845〜18647万石 
2代秋元礼朝1864〜18717万石 

館林藩:町並み・写真
館林藩:城下町 館林藩:城下町 館林藩:城下町 館林藩:城下町
館林藩:城下町 館林藩:城下町 館林藩:城下町 館林藩:城下町
館林藩城下町:名所・旧跡
居城
館林城
館林城
藩主別邸
旧秋元家別邸:館林城
旧秋元家別邸
藩主崇敬社
尾曳稲荷神社:館林城の守護神
尾曳稲荷神社
城内鎮守社
八幡神社:館林城の鎮守社
八幡神社
藩主菩提寺
善導寺:館林市
善導寺
旧館林藩士住宅
旧館林藩士住宅
旧館林藩士住宅
天満神社
青梅天満神社:館林市
天満神社
将軍家縁
青龍神社:館林市
青龍神社


※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。写真や文章のコピーは行わないでください。