小幡藩概要: 小幡藩は天正18年(1590)奥平信昌(徳川家康の娘婿)が3万石で入封したのが始まりで慶長6年(1601)に美濃国加納藩10万石に加増移封されと変わりに水野忠清が1万石に入封しました。その後も短期間で藩主が変わり元和元年(1615)に織田信雄(織田信長の2男)が2万石(その他に大和国宇陀郡3万石)が与えられようやく安定した藩政が行われるようになりました。元和2年(1616)に織田信良が下仁田街道(姫街道)の福島宿(群馬県甘楽郡甘楽町福島)に陣屋を構え、信昌の代の寛永6年(1629)に小幡移転が決まり、寛永19年(1642)にようやく小幡陣屋に藩庁を遷し名実共に小幡藩となっています。
【 小幡藩の信仰 】−福島時代に陣屋に隣接していたのが笹森稲荷神社で、織田信良が安産祈願を行い、見事念願成就した事から以後、祈願所として庇護されています。新たに築いた小幡陣屋では、城下の北東に創建した八幡宮を鬼門鎮守とする一方、小幡藩の領内総鎮守として妙義山中腹に鎮座している中之嶽神社を信仰の中心に据え、織田信久が奉行を派遣して社殿の改築を行っています。これは、織田信長が桶狭間の戦いの際、戦勝祈願した熱田神宮(愛知県名古屋市)と同じ日本武尊が、中之嶽神社にも祭らている事が起因していると思われます。
【 明和事件 】−織田家の支配は7代に渡りましたが明和4年(1767)山県大弐の明和事件に連座し当時の藩主信邦が蟄居し後継の信浮は出羽国高畠藩(山形県高畠町)へ移封されました。明和事件とは兵学者で儒学者でもあった山県大弐が尊王思想を掲げる一方、甲府城や江戸城をどの様に攻めれば効果的かという講義を行った事が幕府に露呈し関係者が処罰された事件です。その際、小幡藩の家老吉田玄蕃が山県大弐と親交が深かった事から処罰の対象となり、藩主織田家は国主格を剥奪され、面高は同石(2万石)ながら実石では低い高畠藩に移封となりました。実際、本当に倒幕運動があったのかは不明ですが、吉田玄蕃が小幡藩で重用された事を妬んだ対立派閥が、倒幕運動に加担しているしていると信邦に讒言、その話を信じた山県大弐の弟子も幕府に密告しています。さらに、事態の収拾を図った信邦が玄蕃を処分したものの、幕府からは、ことの詳細を報告しなかった事で信邦を蟄居処分とし、実弟である織田信浮に織田家を相続させたものの、高畠藩移封となりました。
【 幕末・戊辰戦争 】−代わって松平忠恒が2万石で入封し明治維新まで4代松平家が藩主を勤めています。元治元年(1864)、天狗党が領内を通過した際には追討令が出ていたものの積極的な行動を行わず、さらに主力となった高崎藩と同じく小藩だった七日市藩と貫前神社で軍議でも先鋒を拒否、下仁田戦争の後詰の役割も行わず、結果的に高崎藩兵に大きな犠牲(戦死者36名)を払う遠因となっています。戊辰戦争では新政府軍に参加、三国峠(永井宿)や戸倉口などに100名以上従軍し戦死者1名、戦傷者2名を出しています。
小幡藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 奥平信昌 | 1590〜1601 | 3万石 | |
初代 | 水野忠清 | 1602〜1615 | 1万石 | |
初代 | 永井直勝 | 1616〜1617 | 2万石 | |
初代 | 織田信良 | 1617〜1626 | 2万石 | |
2代 | 織田信昌 | 1626〜1650 | 2万石 | |
3代 | 織田信久 | 1650〜1714 | 2万石 | |
4代 | 織田信就 | 1714〜1731 | 2万石 | |
5代 | 織田信右 | 1731〜1759 | 2万石 | |
6代 | 織田信富 | 1759〜1764 | 2万石 | |
7代 | 織田信邦 | 1764〜1767 | 2万石 | |
初代 | 松平忠恒 | 1767〜1768 | 2万石 | |
2代 | 松平忠福 | 1768〜1799 | 2万石 | |
3代 | 松平忠恵 | 1799〜1856 | 2万石 | |
4代 | 松平忠恕 | 1856〜1871 | 2万石 | |
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