猿ヶ京関所(みなかみ町)概要: 猿ヶ京関所は三国街道の宿場町である猿ケ京宿に設置された関所で、案内板によると「当猿ヶ京関所は、人皇第百十代明正天皇の御宇・徳川三代将軍・家光公の御時寛永八年四月に設置された。近世に至って交通路の整備と共に三国街道は佐渡海道ともよばれ、五街道に次ぐ重要な街道の一つに数えられ、江戸と佐渡との連絡に或いは越後諸大名の参勤交代・新潟奉行・佐渡奉行・旅人の往来・諸物資の輸送など上・下の交通が頻繁になったからここに関所を設けて厳重に行人を監視することになった。最初は真田氏が之を支配したが天和元年十一月真田氏の改易となるに及んで公領支配となった。後高野・片野・木村・戸部の四氏が代々世襲にて関守の役目を務めた。明治二年正月、明治新政府より関所廃止の発令がなされ、ここに猿ヶ京関所も廃止されることになった。 新治村」とあります。
猿ヶ京関所は三国街道沿いに設置された関所の一つで江戸時代初期の寛永8年(1631)に設けられました。当初は沼田藩(藩庁:沼田城)真田家が管理し、沼田藩から関守が2人、足軽が12人が派遣され、地元の農民が昼夜6人ずつ関所の下働きをしていました。
延宝9年(1680)に真田家が改易(真田信利が本藩である松代藩から独立した際、実石より高い石高で申告した事から、幕府から実力以上の負担が強いられ、その負担を領民に押し付けた為、藩政が不安定になった。)になると幕府直領である天領となり代官所から高野氏、木村氏、戸部氏、片野氏を猿ヶ京関所の関守として配されています。
高野氏、木村氏、戸部氏、片野氏の4氏は代々関守を歴任し2人ずつ30日交代で服務、下働きの農民は猿ケ京村(猿ヶ京宿)、相俣村(相俣宿)、永井村(永井宿)、吹路村(吹路宿)、冨士新田村、合瀬村の6カ村が負担し、明治2年(1869)に関所が廃止になるまで、この体制が維持されました。
猿ケ京関所は三国街道を遮るように配され、上り、下りに門が設けられ、周囲は土塁と柵で囲い、街道側の関所は上間、中間、下間の3間構成で、その対面には牢屋敷があり、関所背後の敷地内には3棟(1棟だけが規模が大きく、関守が4氏だった事から、その1棟は2軒1戸の長屋だったと思われます。)の役宅が建てられていました。
三国街道は江戸の無宿人を佐渡金山の労働力として移送していた事から猿ケ京関所の絵図に描かれた牢屋敷には、罪人だけでなく無宿人も収容されていたのかも知れません。
現在残されている猿ヶ京関所の建物は片野家の役宅で利用されていたもので(昭和57年まで当建物に居住)、木造平屋建、寄棟、茅葺、平入、間口7間4尺(桁行18m)、奥行き2間半(梁間12.6m、)、式台付の玄関があるなど格式を感じます。
猿ヶ京関所は貴重な事から関係文書と共に昭和59年(1984)に群馬県指定史跡に指定されています。現在は内部は猿ヶ京関所資料館として三国街道関係の資料と共に一般公開されています。
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