須川宿(みなかみ町)概要: 須川宿(みなかみ町)は三国街道の街道筋に整備された町で、相俣宿と今宿との間に位置していました。須川宿の集落的な発生は判りませんが、鎮守である熊野神社が平安時代後期に源頼義(河内源氏2代目棟梁)によって創建されたとの伝承が残されている事から、これが事実とすれば比較的早くから成立していたと思われます。
享保3年(1686)には49軒、明治10年(1877)には129軒の家屋があったとされ、本陣(梅沢家)と脇本陣がそれぞれ1軒づつ設置されました。旅籠の数は不明ですが天保13年(1842)の村松藩(藩庁:村松城・新潟県五泉市)が参勤交代で利用した際は18軒に分宿している事からもそれ以上の旅籠が存在していたと思われます。
特に須川宿本陣である梅沢家は長岡藩(藩庁:長岡城・新潟県長岡市)の藩主牧野家が参勤交代で須川宿を利用する際には宿泊や休息で利用した為、看板や書状などの資料や、周辺の宿場や村々に発した「目安箱雑用残金送付に付請取方廻状」、「岩鼻県大急廻状御用」、「国絵図改正に付一村限り絵図面提出方の催促状」などが残されています。
享和3年(1803)に行われた伊能忠敬の第4次測量で三国街道を利用した11月14日(旧暦10月1日)には須川宿で昼食を採って塚原宿の名主権左衛門宅で宿泊しています。
一方、須川宿の近場にある赤谷川沿いには湯宿と呼ばれる温泉場があった為、一般の旅人はそこの温泉宿を利用する事例も多く、宿泊客を呼び込む苦労もあったそうです。明治7年(1874)に切ヶ久保新道が開削されると新道が幹線道となり、そこから外れた須川宿は次第に衰退していきます。
現在の須川宿は"匠の里"として町並み整備が進み、水路などが復元(元は街道中心に流れていたそうです。)され、平成12年(2000)には歴史国道に指定されています。
又、脇本陣跡の敷地に建てられた須川宿資料館には須川宿本陣の門(安永8年:1779年建築、切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門形式)だった建物が移築され、資料館内部には本陣の上段の間が復元されています。郊外には名刹である泰寧寺が境内を構えています。
三国街道:宿場町・再生リスト
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