山上城(桐生市)概要: 山上城は藤原秀郷(平将門討伐で功を上げ下野国・武蔵国の国司となった人物。鎮守府将軍。)に血脈を通じる足利高綱が築城し居城としたのが始まりと伝えられています。高綱は山上姓に改め、源頼朝に仕えるなど次第に勢力を強め、後裔はその後も当地を治め室町時代には関東管領上杉氏の元で由良氏、薗田氏、桐生氏と共に東上州四家の1つに数えられています。
その為、山上城も重要性を増し、弘治元年(1555)、北条氏康の侵攻の際には攻撃目標の一つとなっています。北条軍の猛攻は激しく山上城は耐え切れず落城、当時の城主山上氏秀は、脱出しましたが山上氏としては没落します。
永禄年間(1558〜1570年)、越後の上杉謙信が上野国(現在の群馬県)に侵攻、この時小田原北条方だった山上城は落城したと思われ、以後、謙信に従った大胡氏が城代となっています。天正6年(1578)に謙信が死去すると、上杉家で後継ぎ争い(御館の乱)が激化し上杉領だった上野国が空白域になった為、その間隙を突き侵攻した北条氏の支配下に入ります。
しかし、天正18年(1590)に小田原の役の際、豊臣方の片桐且元、郡宗保らに攻められ落城、主家である小田原北条氏が滅亡すると山上城は廃城となっています。
山上城は。南北は650m、東西は220mと天然の堀である藤沢川沿い築城された細長い城で北側から笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭(物見台)と一直線に並びそれらを堀切や空掘、帯廓、腰廓を渦状に配置しています。現在は三の丸周辺が公園として整備されていますが、本丸や二の丸周辺は土塁や空掘、堀切などの遺構が比較的良い状態で残っており昭和23年(1948)に群馬県指定史跡に指定されています。
山上城:上空画像
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