白井宿(群馬県渋川市:在郷町)・町並み

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白井宿(在郷町)・町並み
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【白井宿・概要】白井宿(読み方:しろいしゅく・群馬県渋川市白井)の集落的な発生は時期は判りませんが、鎌倉時代の康元元年(1258)、上杉重房(上杉家の祖)の家臣長尾景煕が上州白井ノ庄を賜った事が長尾家の家伝に示され、一方、他の資料によると鎌倉時代の白井庄には地頭として幕府の御家人である白井河内守常忠が支配している事が記載されています。何れにしても鎌倉時代に長尾氏、又は白井氏が居館となる白井城を築き、その城下町として整備された事が始まりと推察されます(白井城が本格的な城郭として整備されたのは長尾景仲の代の嘉吉元年:1441年〜康正元年:1455年と推定されています)。室町時代に入ると白井長尾家の活動が顕著になり、山内上杉家の有力家臣として白井長尾景守は上野国守護代に任ぜられ、白井の地も上杉家にとっても軍事的、経済的な拠点として重要視されるようになります。白井長尾景仲、景信父子の時代には山内上杉家の執事、武蔵国、上野国の守護代をを勤めるまでに信任を得ています。

しかし、跡を継いだ景春は山内上杉家から離反して古河公方足利成氏に与し反乱を起し、反乱が鎮圧されると大きく勢力が削がれ、白井城には上杉憲房が入ります。長尾景春はその後も古河公方や小田原北条氏などから支援を得て抵抗を続け、内乱などで弱体化した山内上杉家は平井城群馬県藤岡市:群馬県指定史跡)に逃れ、景春は白井城の城主に復権しています。その後は越後の長尾家の支援を受け、白井城から沼田城群馬県沼田市:沼田市指定史跡)にかけての街道筋を掌握し、周辺の大名からも注視される存在まで回復し、家臣である長野家の台頭により、白井長尾家と惣領長尾家の関係が修復され、さらに、山内上杉家の家臣復帰が図られています。ただし、小田原北条氏の台頭と、無理な信濃遠征に失敗した山内上杉家は勢力が維持出来ず、越後の長尾家を頼り落ち延び、白井長尾氏もこれに従っています。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置きの一環で徳川家康が関東地方に移封になると白井城には徳川家家臣の本多康重が2万石で入り、白井城の修築と城下町が町割され、現在の白井宿の基礎となる町づくりが行われています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが終結すると康重は岡崎藩(愛知県岡崎市)に移封となり、代わって松平康長が2万石で白井城に入り白井藩を立藩、しかし、その後は井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞と短期間に藩主がめまぐるしく交代し元和9年(1623)本多紀貞に嗣子がいない為、本多家は断絶となり白井藩は廃藩、白井城も廃城となっています。

【白井宿】−白井宿は白井城が廃城になった後も、地勢的な有利さから商家町として整備された町割が維持され、所謂「在郷町・市場町」として当地域の経済的な中心地として地位が維持されました。特別な主要街道の宿場町ではありませんが、四方に延びる間道の結束点や利根川左岸への渡河点として毎月5と10の付く日は六斎市が立てられ、市の当日には近隣から多くの人が集まり活況を呈しました。白井宿は大きく新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町の5つの町で構成され、主道の中央には水路が設けられ、敷地割りは他の商家町や宿場町同様に短冊型で、その後の改変から敷地間口の広さには大きくバラつきが目立ちます。江戸時代中期と文久2年(1862)、明治31年(1898)に大規模な火災があり、現在は江戸時代に建てられた建物は少ないですが、江戸時代末期頃から養蚕や繭、生糸の生産、販売で財を成す者を多く排出した事から大型の町屋建築や土蔵、長屋門などが点在する独特な町並みが残されました。

白井宿周辺には白井城跡(渋川市指定史跡)や本多紀貞の菩提寺である源空寺(本多氏の墓:本多広孝、広孝夫人、本多紀貞の3基・渋川市指定史跡)、白井町の道しるべ(渋川市指定史跡)、松原の道しるべ(渋川市指定史跡)などがあります。

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