親都神社

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概要・歴史・観光・見所

親都神社(中之条町)概要: 親都神社は群馬県吾妻郡中之条町五反田に鎮座している神社です。親都神社の創建は不詳ですが、境内の古くは「吾妻七社明神」の中心的な神社「和利宮」があった場所で、和利宮が現在の吾妻神社に遷座した事で五反田の住民達が新たに須佐之男命の分霊を勧請して氏神としたのが始まりと伝えられています(諸説有、吾妻神社の由緒では御手洗山から遷座とある為、当地から居館に近い御手洗山に遷座してから、参拝しやすい現在の吾妻神社の境内地に再遷座したのかも知れません)。

親都神社境内背後には嵩山(標高789m)を控え、山頂付近は断崖絶壁と奇岩怪石が複数存在してる事から古代から信仰の対象となり、嵩山自体を御神体としています。

南北朝時代に編纂された「神道集」によると子持大明神(子持神社の祭神)と和理大明神(嵩山の祭神)とは夫婦神で、和理大明神は嵩山の山頂に奥社、麓に親都神社、里宮に和利宮で祭られている事が記されています(子持神社の由緒上は日本武尊と木花開耶姫命の伝説を主体としています)。

中世長く当地を支配した塩谷氏は嵩山を篤く信仰した為、自らの居館近くに和利宮(現在の吾妻神社、又は御手洗山)を遷した事で、残された住民が改めて須佐之男命を祭る神社として親都神社を再興したようです。室町時代中期頃に嵩山の山頂付近に嵩山城が築かれると境内周辺は城下町として整備されたようで「親都千軒」とも呼ばれいました。

しかし、永禄6年(1563)に武田信玄による吾妻郡侵攻により、武田家に従った真田幸隆に攻められ落城、親都神社も大きな被害があったと思われます。享保14年(1729)に社号を七社明神から正一位親都大明神に改め、明治時代初頭に発令された神仏分離令で仏式が排され現在の社号である「親都神社」に改称しています。

現在の親都神社本殿は江戸時代中期の元禄12年(1699)大風で大破した後に修復したもので現在は切妻、銅板葺の覆屋に納められています。拝殿は江戸時代中期の享保11年(1726)に修復したもので木造平屋建て、入母屋、銅板葺(元茅葺?)、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。

境内にある御神木の大ケヤキは推定樹齢700年、樹高15m、目通り9.7m、根周り15.1m、ケヤキでは群馬県第2位の巨木で、貴重な事から昭和32年(1957)に群馬県指定天然記念物に指定されています。親都神社境内には大ケヤキ以外にもスギやケヤキの巨木で埋め尽くされていて"親都神社の境内木"として平成12年(2000)に中之条町指定天然記念物に指定されています。

親都神社神楽殿は木造2階建て、入母屋、銅板葺き、桁行2間半、梁間2間、外壁は真壁造り板張り、正面3方が柱間建具嵌め込み、例祭の5月5日には太々神楽が奉納されます。祭神:素戔嗚尊(須佐之男命)。

親都神社:上空画像


親都神社:ストリートビュー

親都神社:社殿・境内・写真

親都神社境内正面に設けられた朱色の鳥居と石造社号標
[ 付近地図: 群馬県中之条町 ]・[ 中之条町:歴史・観光・見所 ]
親都神社の御神体である嵩山 親都神社参道石段から見上げた拝殿と石燈篭 親都神社拝殿左斜め前方と手水鉢 親都神社社務所から見た拝殿
親都神社本殿覆い屋と幣殿 親都神社境内に設けられた神楽殿では例祭で神楽が奉納されています 親都神社境内に生える大木の麓にある石祠 親都神社御神木の大ケヤキは群馬県第二位の巨木


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