金山城(太田市)概要: 金山城は室町時代の文明元年(1469)に新田氏の一族である岩松家純が金山(標高:235.8m)の山頂付近に築いたのが始まりとされます。岩松氏は度々一族で対立した事で求心力を失い、変わって重臣で摂政となった横瀬氏が大きな影響力を持ち、享禄2年(1529)岩松昌純が横瀬泰繁の軍勢に殺害された事で事実上没落し、由良成繁が下克上により事実上実権を握ります。
戦国時代の上野国は小中規模の国人領主が乱立し周辺の大大名である越後上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、常陸佐竹氏などの草刈場的な様相を呈していた為、、由良氏も独立を保ちつつ度々主君を変え、他の国人領主達と縁組するなど領土安堵、拡大を図り金山城も随時、改築や拡張が行われていたと思われます。
天正2年(1574)には5度に渡り上杉謙信(春日山城の城主、関東管領、越後国守護職)の猛攻を耐えた事で難攻不落の名城として名を馳せますが、天正6年(1578)に謙信が死去すると、後継者争いである御館の乱が発生、その際、上杉景勝から上野国の割譲を条件に協力関係となった武田勝頼が当地を支配します。
天正10年(1582)に織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田勝頼が自刃に追い込まれ武田家が滅ぶと織田家家臣の滝川一益(織田四天王)が上野国の領主となります。同年、織田信長が本能寺の変で倒れると一益は自領に引き上げた為、小田原北条氏が台頭するようになります。
天正12年(1584)に由良氏が小田原北条氏の軍門に下る事で金山城は開城され、由良氏は桐生城(群馬県桐生市)へ移されます。その後、金山城には北条家の家臣が城主として赴任しましたが、天正18年(1590)の小田原の役では、城主及び主力部隊は小田原城(神奈川県小田原市)で籠城した為、金山城には一部の兵しか残されず、大きな抵抗出来ないまま前田利家などの豊臣軍により攻略され、小田原城落城後に廃城になります。
金山城は関東の山城では珍しく石垣を多用とした城で、川越城(埼玉県川越市)・忍城(埼玉県行田市)・前橋城(群馬県前橋市)・金山城(群馬県太田市)・唐沢山城(栃木県佐野市)・宇都宮城(群馬県宇都宮市)・多気城(茨城県つくば市)又は太田城(茨城県常陸太田市)と共に「関東七名城」の1つに数えられ、昭和9年(1934)に国指定史跡に指定、平成18年(2006)には日本100名城にも選定されています。
金山城では通常の城では本丸に当たる城主の居館部を本城又は実城と呼び、約1万坪もあったとされます。その本城を中心に主要な郭が6箇所(本城・二ノ丸・三ノ丸・御台所曲輪・南曲輪)、腰郭が3箇所設置され、それぞれに土塁や堀切、石垣などが配され、外城(出城)として、西城・北城・八王子山砦がありました。
大手門は高石垣による虎口で大手筋は石畳と石垣で構成され防御と権威、威嚇などの要素を含んでいたと思われます。籠城の備えとして小さな井戸が多数ある一方、日ノ池、月ノ池と呼ばれる大きな池があり用水である一方で信仰の対象にもなっていました。現在は発掘調査や資料などによる復元工事が行われ、往時の金山城の様子が再現されています。
金山城:上空画像
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