太田市: 金龍寺

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概要・歴史・観光・見所

金龍寺(太田市)概要: 大田山義貞院金龍寺は群馬県太田市金山町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。金龍寺の創建は元享元年(1321)、新田義貞が天真自性和尚を招いて開山し、義貞の戒名である「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」から金龍寺と号したのが始まりと伝えられています。

延元3年(1338)に義貞が戦死した事で庇護者を失い一時衰退しますが応永5年(1398)に一族である岩松満純(父系は足利氏、母系は新田氏)が諸堂を再建し中興開基しています。その後、応永24年(1417)に当時の金山城の城主である横瀬貞氏(新田義貞の3男である新田義宗の子)が現在の福井県坂井市丸岡町から義貞の遺骨を境内に移し、廟所を造営、木像を安置し、横瀬家の菩提寺としました。

享禄2年(1529)に由良成繁が下克上により当地方を掌握、跡を継いだ由良国繁は天正18年(1590)、小田原の役で北条側に与した事から取り潰しの危機となります(事実上小田原城に人質として軟禁)。しかし、嫡男の貞繁と母である妙印尼が豊臣方に協力した為、取り潰しは免れ現在の茨城県牛久市へ移封、金龍寺も2派に分かれ一派は由良氏に随行し牛久、更には龍ヶ崎(茨城県龍ヶ崎市)へ移ります。

現地に残った本寺は衰微しましたが慶長年間(1596〜1615年)、館林城(群馬県館林市)の城主榊原康政父子によって寺領(田畑8町余)の寄進や境内の整備が行われ再興されています。

金龍寺境内にある新田義貞の供養塔は寛永14年(1637年)、義貞300回忌法要の際、建立されたもので総高246Cm、安山岩製、多層塔、横瀬氏(由良氏)五輪塔(9基、安山岩製)と共に名称「金龍寺の由良氏五輪塔並びに新田義貞公供養塔」として昭和49年(1974)に太田市指定史跡に指定されています。

金龍寺本堂は木造平屋建て、桟瓦葺き、平入、桁行6間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内部には本尊である釈迦如来像が安置されています。上州太田七福神:毘沙門天。山号:大田山。院号:義貞院。寺号:金龍寺。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 金龍寺菩提者:横瀬家 】-金龍寺を菩提寺とする横瀬家は武蔵七党(横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党)の横山党、又は猪俣党の一族とされる時清が新田荘横瀬郷を与えられ、地名から横瀬氏を称したのが始まりとされます。

跡を継いだ貞氏は足利氏と新田氏の後裔にあたる岩松氏に従い、代々横瀬家は重臣として重用されます(貞氏は新田義貞の3男・新田義宗の子で横瀬時清の養子になったとされますが、戦国時代、横瀬氏は下克上により主家である岩松氏領を乗っ取っている事から正当性を主張する為に捏造されたと考えられています。

又、徳川家も新田氏の後裔を自称した為、同族として有利にする為に捏造したとも云われています)。国繁の時代に入ると岩松家執事として領内を采配する立場となり、跡を継いだ成繁は主家である尚純とその父親(又は祖父)である明純を更迭させ、金山城を掌握、尚純の嫡子で幼少だった夜叉王丸を擁立、反対したその他の家臣達も一掃され事実上、旧岩松領を掌握しています。

さらに、享禄2年(1529)、実権を取り戻す為に行動した夜叉王丸(岩松昌純)を殺害、残った岩松一族を軟禁し下克上が完遂されました。泰繁を継いだ成繁は天文5年(1536)には「家中法度」「百姓仕置法度」を発令するな領内を整備し専横感を薄め正当性を強調する為か?永禄8年(1565)には新田氏縁の地名から由良氏を名乗りました。

又、領内の掌握の為、社寺の保護にも尽力し、三夜沢赤城神社(群馬県前橋市)の本殿に安置されている宮殿(群馬県指定文化財)の扉には「源成繁寄納」の銘があり成繁が奉納した事が窺えます(三夜沢赤城神社は延喜式神名帳に名神大社、上野国二宮として領主や為政者から崇敬された神社)。

【 金龍寺菩提者:由良家 】-金龍寺を菩提寺とする由良家は横瀬家から派生した氏族で、一般的には下剋上で主家岩松氏を倒した際に横瀬から由良姓に改めたと云われています。戦国時代の新田領は越後上杉氏、甲斐武田氏、小田原北条氏、常陸佐竹氏などの大大名に囲まれたていた為、由良氏はその都度主家を替えていましたが概ね不本意ながら小田原北条氏に従わざるを得ない状況だったようです。

天正18年(1590)の小田原の役では当時の金山城の城主由良国繁は小田原城に軟禁状態だった為、豊臣方に敵対する講図となっていましたが、国繁の生母である妙印尼と嫡男貞繁が豊臣方として行動した為、改易は免れ常陸国牛久領5千4百石が与えられました(形式上は領地は妙印尼に与えられ、それを国繁が譲られた)。

由良氏の本城だった金山城(太田市)の麓にある金龍寺(太田市)は横瀬家・由良家の菩提寺で境内には先祖の墓碑(9基)が建立され、その中でも新田義貞の供養塔が異彩を放っています。

延元3年(1338)に越前国藤島の灯明寺畷で戦死した義貞の遺骸は日頃から信仰していた時宗の僧侶8人によって運ばれ越前の称念寺に葬られたとされ、応永24年(1417)に金龍寺の禅龍和尚が称念寺(福井県坂井市丸岡町)から新田義貞の遺骨(分骨?)を持ち帰り塚を設けたと伝えられています。供養塔は寛永14年年(1637)、新田義貞の300回忌に建立されたもので、遺骨又は分骨は移封先の牛久の金龍寺に移されたと思われます。

金龍寺:上空画像


金龍寺:ストリートビュー

金龍寺:写真

境内に設けられた「上り来て 桔梗明るし 金竜寺」の句碑と「岩田先生の碑」
[ 付近地図: 群馬県太田市 ]・[ 太田市:歴史・観光・見所 ]
金龍寺参道石段とケヤキの大木 金龍寺参道石畳みから見た本堂正面 金龍寺境内に流れ出す霊水と石垣 金龍寺の境内にある由良氏五輪塔並びに新田義貞公供養塔
金龍寺に寛永14年に建立された新田義貞公供養塔(石造多層塔) 金龍寺にある新田家の墓域に向かう石段 金龍寺境内に建立された七福神の石像 金龍寺に建立された石仏越に見える本堂左斜め前方
独り言
新田義貞は1338年閏7月に発生した藤島の戦い(越前国藤島:福井県福井市)で北朝方の得江頼員に敗れ討死しました。義貞は現在の平泉白山神社(福井県勝山市)の僧兵どもが籠城する藤島城攻略の為、軍を進めたものの黒丸城から出撃した得江頼員が率いる僅か300の兵に急襲され混乱に陥ると、策略に嵌り義貞の本陣が細川、鹿草軍によって包囲され一斉に矢を撃ちかけられ眉間に矢を射られ致命傷を負い自刃したとされます。大将自ら最前線に赴くのは立派ですが、結果的には小さな戦で名もなき武将に討ち取られてしまった事で、南朝の勢力が大きく後退する事になりました。首は討ち取られたものの、胴体部は時宗の僧侶8人が称念寺の境内まで運ばれ手厚く葬られたそうです。どういう経緯かは判りませんが応永24年(1417)に遺骨の一部が、義貞縁の金龍寺に譲り受ける事になったようで、金龍寺にも義貞の供養塔が建立されています。


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