世良田東照宮(太田市)概要: 世良田東照宮は群馬県太田市世良田町に鎮座している神社です。元和2年(1616)に徳川家康が駿府城(静岡県静岡市)で死去すると家康の遺言により一旦久能山(静岡県静岡市:久能山東照宮)に葬られ、翌年日光東照宮(群馬県日光市)に改葬されました(遺言通りだと御霊のみ勧請、遺体は久能山のまま)。
当初の社殿は2代将軍徳川秀忠によって造営されましたが、3代将軍徳川家光は家康に対して信仰が篤かった為、、寛永13年(1636)の21年神忌に合わせて日光東照宮の社殿大造営し、秀忠が造営した元の多宝塔・唐門・拝殿を徳川家縁の世良田に移築しました(家康の遺言では日光には小規模の社を設ける事でしたが、秀忠はそれなりの規模の社殿を造営し、家光に至っては遺言を無視し、当時の日本最大規模、最高水準の技術が投入され壮大な社殿が造営されました)。
徳川家康が新たに制作した系図上、源氏の正当血統である新田家一族の世良田氏(得川氏)を祖とした為、世良田氏発祥地を聖地として整備したと考えられ、同時期に家康の生誕地に近い岡崎(愛知県岡崎市)には滝山東照宮、子受け祈願し家康を授かったと伝わる鳳来寺(愛知県新城市)には鳳来山東照宮がそれぞれ創建しています。
世良田東照宮の別当には徳川家の祖とされる得川義季が開基した長楽寺があたり、当時の住職が幕府に大きな影響力があった天海大僧正だった事からも幕府が重要視していた事がわかります。
寛永21年(1644)に日光東照宮から徳川家康の分霊を勧請し、新たに本殿を造営した事で現在に見られるような境内となり幕府からは社領200石の朱印地が安堵されました。江戸時代を通して社殿の改修は10数度に渡り、その修繕費は全て幕府が賄ったとされ長楽寺と共に繁栄を極めました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により明治8年(1875)に長楽寺から分離し、明治12年(1879)に郷社に列しています。祭神:徳川家康公。
世良田東照宮の本殿は寛永21年(1644)に徳川家光によって造営されたもので一間社流造、銅瓦棒葺、内部は黒漆塗で仕上げられ厨子、須弥壇が安置され、蟇股には左甚五郎作と伝えられる「巣籠りの鷹」が彫刻されています。拝殿は旧日光東照宮の拝殿を移築したもので、入母屋、銅瓦棒葺、正面と背面に唐破風、外壁は朱色を基本で細部が極彩色、金物が金箔、桁行5間、梁間3間。
唐門も旧日光東照宮から移築したもので唐破風造、四脚門、銅瓦棒葺。世良田東照宮本殿、拝殿、唐門、境内にある元和4年(1618)に制作された鉄燈籠も同じく国指定重要文化財に指定されています。御黒門(神門)は規模が大ききい高麗門形式で切妻、本瓦葺き、一間一戸、上部に格子が設けられている珍しい門です。
又、世良田東照宮境内には真言院井戸や法照禅師月船?海塔所並び普光庵跡などがあり新田荘遺跡(東照宮境内)として国指定史跡に指定されています。
社宝の太刀銘了戒(附:銀造沃懸地太刀拵)は13世紀末期に作刀された名刀で後水尾天皇が日光東照宮に寄進したものを社殿と共に込まれたもので大正10年(1921)に国指定重要文化財に指定されています。板面著色三十六歌仙図は寛永19年(1642)頃、東照宮に掲げる為に狩野安信・元俊・長信の3名によって製作されたもので、縦52.3cm、横36.5cm、昭和40年(1965)に群馬県指定文化財に指定されています。
世良田東照宮:上空画像
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