中之嶽神社

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概要・歴史・観光・見所

中之嶽神社(下仁田町)概要: 中之嶽神社は群馬県甘楽郡下仁田町上小坂中之嶽神社(下仁田町)日本一の大きさの大黒様と妙義山に鎮座している神社です。中之嶽神社は古くから鎮座地である妙義山(最高峰・谷急山:標高1162.1m)の山の神「波胡曽神」を祭神としていました。妙義山は日本三大奇景の一つに数えられる程、特異な山容を持つ山で、古代から信仰の対象となり赤城山(赤城神社)榛名山(榛名神社)と共に上毛三山としても信仰を広げました。現在は廃社や合祀などが進み妙義神社や中之嶽神社のように主祭神が変わった例もありますが、妙義山の中腹から麓にかけては、本社格の妙義神社をはじめ、「波胡曽神」を祭る神社が複数鎮座していたそうです。

【 中之嶽神社と日本武尊 】-中之嶽神社には日本武尊が勅命により東国平定を完遂し、凱旋帰国の際に当地を訪れ、御神体となる妙義山に登岳したのと伝承が残されています。日本武尊が上野国(現在の群馬県)を通過した経路には碓井峠説と鳥居峠説があり、中之嶽神社の位置関係から察すると碓井峠を越える前に左折して妙義山を登拝した事になります。

安中市内の近世中山道と呼ばれる街道筋には日本武尊の史跡や伝承が点在していますが、中之嶽神社はそれよりやや離れた下仁田町側にあり、その中間(富岡市)に位置し、同じく妙義山を御神体とする妙義神社には日本武尊の伝承は無いようですが、明治維新後は主祭神として祭られています。

もし、本当に妙義山を登拝しているのであれば、中之嶽神社より格式が高い妙義神社にも何らかな足跡があってもよさそうですが何も無く、現在主祭神になったているのは謎です。

【 中之嶽神社と波胡曽神 】-中之嶽神社は元々「波胡曽神」、妙義神社は元々「波己曽神」を祭り、同じく妙義山を御神体として信仰の対象としている事から、妙義山の山の神は「はこそ神」と呼ばれていた事が窺えます。妙義山は当初は「はこそ山」と呼ばれ山容も独特で、山中には奇岩怪石が多数あった事から古代から信仰の対象となり、「はこそ神」と呼ばれる地元神として祭られたと思われます。

「はこそ山」は歌枕としても知られるようになり、能因集には「草枕夜やふけぬらん玉くしげ波己曽の山は明けてこそ見め」、信生法師集には「かうづけや波己曽の山のあけぼのに二声三声鳴くほととぎす」と詠われています。当地にも仏教の影響が浸透すると、仏教用語の「妙義」、又は妙義神社と関係が深いとされる花山院長親の出家後の号である「子晋明魏」から妙義山と呼ばれるようになっています。

【 波胡曽神の格式 】-中之嶽神社は欽明天皇の御代(539〜571年)に妙形氏が社殿を造営し妙義山に日本武尊が登拝したとの伝承に因み改めて日本武尊の分霊を勧請、一方、妙義神社は宣化天皇2年(537)に創建したと伝えられている事から、同じ様な時期に創建したとも言える由緒を持っています。

平安時代の歴史書である三代実録には「貞観元年(859)三月二十六日、授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり、平安時代の上野国(現在の群馬県)内に鎮座する格式の高い神社を記載した「上野国神階帳」には「従二位 波己曾大明神」とあり、当時は七波己曾と呼ばれ複数の「はこそ神社」が鎮座していた事から何れかが格式の高い神社として認識されていた事になります。

中之嶽神社も候補社の1つと思われますが、江戸時代に入り加藤長清が中興開山する以前の歴史はどうも不透明のようです。

弘仁2年(811)、藤原冬嗣(藤原内麻呂の次男、平安時代初期の公卿・歌人、太政大臣)が出雲大社(島根県出雲市)の分霊を勧請して甲子大国神社を創建、寿永2年(1183)には藤原祐胤が神剣を奉納しています。甲子の「子」はネズミを指し、ネズミは大黒天を窮地から助けたという伝説も重なり、甲子の日が縁日である甲子祭が行われています。又、甲子が「甲子園」と被る事から甲子園を目指す高校球児から信仰の対象になっています。

【 中之嶽神社と小幡藩 】-その後一時衰退しますが江戸時代初期の天和2年(1616)、中之嶽神社(下仁田町)境内社である大国神社の鳥居と社殿と玉垣加藤長清が中興開山し、以降、広く信仰されるようになります。特に小幡藩(藩庁:小幡陣屋)の藩主織田家から崇敬され、中之嶽神社を領内総鎮守に定めると3代藩主織田信久は社殿を改築し中之嶽奉行所の設置や社殿の造営、社地の寄進を行うなど篤く庇護しています。又、嶽高寺を別当とし祭事を取り仕切らせ、享保5年(1720)には嵯峨御所より十六葉菊御紋付の幕、提灯を賜るなど隆盛を極めます。織田家は織田信長の後裔で、信長は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの際、熱田神宮(愛知県名古屋市)に願文を奉納し戦勝祈願を行い、今川義元を討った事から、強い繋がりがあり、熱田神宮の相殿神である日本武尊と同じ祭神を祭る中之嶽神社を特別視したのかも知れません。

織田家が移封になった後も新たに藩主になった松平家が崇敬し視察に訪れるなど厚く庇護しました。一方、妙義神社は中世以降も領主や為政者から信仰を集め、江戸時代には幕府の庇護を受けた事で広い境内が整備、壮麗な社殿が造営され、事実上妙義信仰の本社的存在となっています。

中之嶽神社の社殿は長く急勾配の階段の上に建立され背後にある轟岩を御神体としている為、拝殿(明治時代再建、入母屋、銅板葺、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝、外壁は真壁造り板張り、浜縁、隔て板)と幣殿のみの社殿形式になっていて古代からの巨石(岩)信仰の名残が見られます。主祭神は日本武尊。鏑川七福神霊場(大黒天:大黒像は日本一の大きさとされ高さ20m)。

中之嶽神社:上空画像

【 参考:サイト 】
公式ホームページ


中之嶽神社:ストリートビュー

中之嶽神社:社殿・参道・写真

中之嶽神社境内正面に設けられた朱色の大鳥居と石造社号標と石燈篭
[ 0ff">付近地図: 群馬県下仁田町 ]・[ 下仁田町:歴史・観光・見所 ]
中之嶽神社参道の石段(階段)と杉並木 中之嶽神社境内岩壁に取り込まれている社殿 中之嶽神社社殿背後の轟岩 中之嶽神社が境内を構えている妙義山
中之嶽神社の境内に鎮座している大国神社の鳥居 中之嶽神社参道石段(階段)前の石鳥居と石燈篭と石造狛犬 中之嶽神社拝殿側面と御神体の轟岩 中之嶽神社岩壁に鎮座している小祠
独り言
中之嶽神社が何時頃から祭られたのかは判りませんが妙義山自体は古代人からの信仰の対象になっていたようです。現在は境内周辺に大きな集落は無く、氏子はどこの集落の住民なのだろう。住所的には上小坂集落になると思いますが、ややスケール感がマッチしていないような気がします。轟岩には伝説があるようで、何でも見えない所に窟があり、そこに草薙剣が隠されていたとか。草薙剣は日本武尊が所持していた三種の神器ですが、妙義山を登拝した際に一時保管した程度なのか、本格的に隠したのかは判りません。記紀では熱田神宮に納めている事になっている事から、こちらの伝説が事実であれば、熱田神宮の方が偽物という事になります。又、轟岩の姿かたちが鳥に似ている事から八咫烏とされているそうです。八咫烏は神武天皇を勝利に導いた事でも知られています。こちらは、大黒天が甲子園を目指す高校球児に信仰されている事から、勝利を導くといった後付けの伝説のような気がします。


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