下仁田町: 高崎藩士戦死の碑(下仁田戦争の跡)

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概要・歴史・観光・見所
高崎藩士戦死の碑(下仁田町)概要: この碑は明治26年(1893)に下仁田戦争30周年を記念して建てられたもので、表の碑文は勝海舟、裏の碑文は市川寛斎の孫三兼万庵の筆です。下仁田戦争は元治元年(1864)水戸天狗党(水戸藩士を中心とする尊皇攘夷派の組織、当時禁裏御守衛総督だった一橋慶喜を擁立し朝廷に働きかける為に京都へ上洛を画策、幕府は諸藩に命じて天狗党を追討され目的は果たせなかった。)900余名と幕府の名を受けた鎮圧軍高崎藩(藩庁:高崎城)200余名との間で行われました。

水戸天狗党は上州姫街道(下仁田街道)を西上、対する鎮圧軍は高崎藩を中心に、街道沿いに本拠を持つ吉井藩七日市藩小幡藩で構成されたものの、吉井藩では城下(吉井陣屋の陣屋町)で水戸天狗党一行が宿泊するという失態を招き、残りの3藩は貫前神社で軍議を開き、高崎藩が先鋒、七日市藩、小幡藩は後詰と後方支援を担うはずでしたが、七日市藩と小幡藩が積極的な行動を起こさなかった為、結局、高崎藩のみで対処する事になりました。

下仁田戦争は元治元年(1864)11月16日の午前4時頃から開始され、数の少ない高崎藩は貫前神社が鎮座している一ノ宮から水戸天狗党を迂回する形で正面に回り込み、後方から七日市藩と小幡藩が挟み込む作戦だったようですが、上記のように両藩は動かなった事から危機的状況に立たされました。当初は拮抗した戦局だったとされますが戦力的に余力のある天狗党は右翼と左翼に別動隊を迂回させ3方向から攻撃を加えた事で次第に優位に進め高崎藩は本陣を撤退、さらに安導寺付近で追撃戦が行われここでも敗北した高崎藩は中山道で高崎城に帰城、戦死者は天狗党4名に対し高崎藩36名に達したそうです。当地は下仁田戦争の激戦地の1つとされ貴重な事から昭和57年(1982)に下仁田町指定史跡に指定されています。

下仁田戦争の跡:写真

高崎藩士戦死の碑(下仁田戦争の跡)
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