高崎市: 箕輪城

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概要・歴史・観光・見所
箕輪城(高崎市)概要: 箕輪城は戦国時代の永正9年(1512)に長野業尚によって築いたのが箕輪城始まりとされます。長野氏は古くから関東管領上杉氏の重臣としてこの地に土着した国人領主で、天文15年(1546)河越城の戦いで当時の管領上杉憲政が北条氏に破れ越後へ落ちると、これを期に独立し領土を広げました。長野業正は名君の誉れ高く上杉謙信が後ろ盾となると西上野を束ねる旗頭的存在となり、武田氏や小田原北条氏の侵攻を何度も防ぎ、この時期に箕輪城の拡張、整備が行われたと思われます。その後も、箕輪城を巡る攻防戦が繰り広げられましたが永禄4年(1561)に業正が死去すると衰微し永禄9年(1566)武田軍の総攻撃により遂に落城しました。以後は武田氏の上野国侵攻の軍事的拠点として甘利氏や真田氏、内藤氏などの重臣が城代として赴任しますが天正10年(1582)に武田氏が滅ぶと北条氏が侵攻、さらに織田信長の上野攻略により家臣である滝川一益が領主となります。本能寺の変で信長が自刃すると一益は本領に引き上げ再び北条氏の支配となります。天正18年(1590)、小田原の役で北条氏が滅ぶと徳川家康が関東に入封し箕輪城は重臣である井伊直政が12万石で配されます。この次期に箕輪城が現在見られるような近代的城郭に改修されましたが、慶長3年(1598)に家康の命で直政が高崎城へ移った事で箕輪城は廃城となり、廃材が高崎城に利用されたと言われています。箕輪城は梯郭式平山城で西側が榛名白川、南側が榛名沼を天然の外掘とし東と北側に掘を設ける事で外部からの備えとしました。城域は標高270m、面積47ha、東西約500m、南北約1100mに及び、本丸を中心に御前曲輪(本丸の詰として配された郭で西南隅には櫓が設けられ、郭内には持仏堂が建立されていました。箕輪城が落城した時は長野業盛が持仏堂で自刃したと伝えられています。)、二ノ丸、郭馬出、三之丸、鍛冶曲輪、通仲曲輪、稲荷曲輪、帯曲輪、新曲輪とあり玉木山が出城のような役割を持っていたと思われます。箕輪城は大きく南北に分かれ、その間には深さ10m程度の大堀切(空堀)があり、それぞれの郭との間にも空堀が配され要所には石垣も用いられました。現在の箕輪城は郭の形状や土塁、空掘り、石垣などの遺構がよく保存されていて昭和62年(1987)に国指定史跡に指定され、平成18年(2006)に日本100名城にも選定されています。

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箕輪城
虎韜門
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鍛治曲輪の石垣 鍛治曲輪 三の丸門跡と石垣 三の丸 三の丸土塁
空掘 大堀切と土橋 空掘 郭馬出 二の丸
本丸馬出し 本丸 本丸土塁 本丸空堀 御前曲輪

 
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