清水寺(高崎市)概要: 華蔵山弘誓院清水寺は群馬県高崎市石原町に境内を構えている真言宗の寺院です。清水寺の創建は不詳ですが伝承によると平安時代初期の大同3年(808)坂上田村麻呂が蝦夷東征の為、当地まで軍を進めた際、京都東山の清水寺(京都府京都市東山区清水)から勧請して戦勝と武運長久を祈願したのが始まりと伝えられています。
歴代領主から庇護され元禄5年(1692)には当時の高崎藩(藩庁:高崎城)の藩主安藤重博が狩野常信に命じて「龍頭二観音現出ノ図」と「能楽吉野詣ノ図」の2面の絵馬を奉納し、何れも昭和44年(1969)に高崎市指定重要文化財に指定されています。
清水寺は庶民からも信仰され江戸時代後期の文化12年(1815)、関流小野良佐源栄重門人で上毛群馬郡板井村出身の斎藤四方吉藤原宣長(上州和算界の逸材、「算法円理鏡」著)が算額を奉納し、同じく昭和44年(1969)に高崎市指定重要文化財に指定されています。
清水寺山門は切妻、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門、「観世音」の扁額、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、左右には仁王像が安置されています。本堂(大悲閣)は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、内部には文化財指定されている絵馬や算額が掲げられ本尊である千手観音像が安置されています。
正面左手にある田村堂は木造平屋建て、宝形造、桟瓦葺き、桁行2間、張間2間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、正面左右には花頭窓付、内部には坂上田村麻呂の木像と共に元治元年(1864)に行われた下仁田戦争(水戸藩士が天狗党を結成後上洛を目指し西上、高崎藩はそれを阻止すべく現在の下仁田町付近で交戦となった。この戦いで高崎藩は36人の死者を出し敗退。)で犠牲になった高崎藩士36人の木像を安置しています。
清水寺の参道にある「芭蕉花の雲句碑(高崎市指定重要文化財)」は天保13年(1842)、高崎出身の俳人、富所(志倉)西馬とが中心となり建立されたもので、貞亨3年(1686)芭蕉が深川の自宅から浅草寺を眺めながら詠んだ句、「観音の 甍みやりつ はなの雲」が書家巻菱湖(碑陰の文は牛久藩主:大内瀾長)の書によって刻まれています。由緒や形状などから県内最高峰の芭蕉句碑とされます。
弘法大師高崎霊場第一番札所。上野国順礼札所三十四ヵ所34番札所。山号:華蔵山。院号:弘誓院。寺号:清水寺。宗派:真言宗豊山派。本尊:千手観世音菩薩。
清水寺:上空画像
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