月読神社

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貫前神社・月読神社

[ 月読神社 ]
貫前神社・月読神社・概要: 月読神社は貫前神社の末社で、神門と楼門の間にある参道の石段沿いに鎮座しています。案内板によると「 月読神社の現在の社殿は、寛永12年以前の旧御本社拝殿を牛王堂として使用し、明治維新後、月夜見命をお祀りして月読神社と改称した。明治41年、近在の氏神である社久司神社(秋畑琵琶澤)、雷電神社(秋畑二ツ石)、湯前神社(秋畑裏根)、近戸神社(富岡市野上)の各社を合祀した。月夜見命他17柱の神々をお祀りしている。」とあります。社殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、妻入り、間口3間、奥行き3間、外壁は真壁造り横板張、木部朱塗り、軒回り白漆喰仕上げ、貫前神社は上野国一宮ではあったものの、寛永12年(1635)に3代将軍徳川家光が社殿を再建するまでは、小規模な社殿だった事が窺えます。牛王堂についての詳細は判りませんが、名称から牛頭天王が祭らていたと思われます。牛頭天王は素戔男尊(スサノオ)の本地とされる為、明治時代の神仏分離令後は素戔男尊を祭神とする例が多いのですが、理由は判りませんが貫前神社の場合、仏教色の強い牛頭天王を廃して素戔男尊の兄弟神である月読命を勧請したようです。月読神社の社殿は少なくとも江戸時代以前に建てられ当寺の貫前神社の様子が判る貴重な存在です。

一般的に貫前神社は二神二社説と二神一社説がありますが、個人的な考え方として、日枝神社の項でも述べた通り、当初は健経津主命・大己貴命・保食命を祭る三神一社で、江戸時代に入り大宮司が一宮家に変更した事で、大己貴命は旧本殿に留まり日枝神社の祭神とし、残る二柱のうち保食命を一宮家の祖である小幡家が信仰した豊稲田姫に見立てた姫大神として密かに奉斎したのではないかと推論しました。そして、本殿の項でも述べてた通り、社殿を豊稲田姫が祭られている稲含山の方角に向け、それが悟られないようにあえて下り宮とし、さらに貫前造と呼ばれる2階建の本殿を設ける事で垂直性を意識させ、下り宮にした不利を解消させたのではないかという推察もしました。

ここでは何故、月読神社がこの地に配されたのかを考察します。上記で記しましたが、元々は牛王堂で牛頭天王(素戔男尊)が祭られていた神社です。祭神である月夜見命と素戔男尊は兄弟神でありますが、実はある共通点があります。それは、両神とも保食命を殺した事です。理由は判りませんが、奈良時代に成立した「日本書紀」では月夜見命が保食命を殺し、同じく奈良時代に成立した「古事記」では素戔男尊が保食命を殺しています。当然、貫前神社の主祭神が保食命では、月夜見命と素戔男尊が境内に祭られには相応しくない神々と言えます。一宮家は保食命と豊稲田姫との共通点から姫大神を奉斎するのですが、保食命を姫大神に見立てると同時に自らの信仰を貫く為には保食命を否定する必要性がありました。その為に神門(楼門)の前に牛王堂を設け、保食命を殺した牛頭天王(素戔男尊)を祭る事でこの図式を成立したものと考えられます。明治時代神仏分離令で牛頭天王が祭る事が出来なくなると、同じく保食命を殺した月夜見命を祭る事で上記の図式を維持したと考えると一連の謎の一端が明確になるのではないでしょうか?

写真1:境内下り参道 写真2:大鳥居 写真3:総門 写真4:唐銅製燈籠 写真5:楼門 写真6:拝殿 写真7:本殿 写真8:拝殿・本殿
写真9:神楽殿 写真10:勅使門・勅額鳥居 写真11:日枝社 写真12:スダジイ 写真13:銀杏 写真14:楼門拡大 写真15:拝殿軒唐破風 写真16:本殿・透塀
写真17:月読神社 写真18:雷神小窓(本殿) 写真19:抜鉾若御子神社 写真20:下り参道石段 写真21:上り参道石段 写真22:拝殿左斜め正面

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