多胡碑

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概要・歴史・観光・見所

多胡碑(高崎市吉井町)概要: 多胡碑は群馬県高崎市吉井町池字御門に位置しています。多胡碑は多賀城碑(神亀元年:724年・宮城県多賀城市・国指定重要文化財)、那須国造碑(文武天皇4年:700年・栃木県大田原市・国宝)とともに日本三大古碑山ノ上碑(天武天皇10年:681年建立・国指定特別史跡)、金井沢碑(神亀3年:726年・国指定特別史跡)と共に上野三碑の1つに数えられています。

多胡碑の材質は安山岩で塔高さ125p、幅60cm、碑文は6行、80文字「 弁官符上野國片?郡緑野郡甘 良郡并三郡内三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品穂積親王左太臣正二 位石上尊右太臣正二位藤原尊 」と刻まれています。多胡碑は和銅4年(711)3月9日に多胡郡が新たに設置され時に記念で建てられたものですが内容の詳細は諸説あり確定していないそうです。

現代語訳は高崎市のホームページによると「 朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。」とあります。

同じような内容が「続日本紀」に記載されている事から多胡碑に刻まれている事は略事実とされ、発見された場所は多胡郡衙、又はそれに準じた重要施設があったと推定されています。内容の相違点の1つが「羊」という文字の解釈で主に方角説と人名説、誤字説、省文説があり方角説は羊=未=南南西微西。人名説は周辺地域に羊太夫伝説が有る、多胡=胡人(中国に存在する部族)=羊は中国系渡来人、甘楽郡=カラ郡=新羅系渡来人が住んだ地域=羊は新羅系渡来人。

誤字説は半、手、年などの字が誤って刻まれた、又は長年の劣化や磨耗によって羊のように見える。省文説は養、群、詳、祥の文字の略字として羊の字が採用された。などですが現在は人名説が有力なようです。多胡碑周辺は極めて貴重な事から昭和29年(1954)に国指定特別史跡に指定され、境内には多くの歌碑が建立されています。

又、同じ旧吉井町内には多胡郡が成立直後に郡の総社となり、渡来人や帰化人が創建したと伝わる辛科神社が鎮座し、関係性が強いとされます。

多胡碑:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


多胡碑:ストリートビュー

多胡碑(高崎市吉井町):写真

多胡碑
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