善導寺(榊原家:菩提寺)

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【 菩提者 】 榊原康政は、榊原長政の次男として生まれ、幼少の頃から徳川家康(当時は松平元康)の小姓として常に行動を共にした事で信頼も篤く、家康の「康」を賜り於亀から康政に改称しています。元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦い、天正9年(1581)高天神城攻防戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590)の小田原の役などで家康に従軍、大功を挙げ、家康関東移封の際に上野国館林領(群馬県館林市:館林城)10万石が与えられました。当時の10万石という石高は徳川家臣団の中では第2位にあたり徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍し、中山道を西上、石田方に与した真田昌幸、幸村(繁信)父子の居城である上田城(長野県上田市)攻防戦では軍艦として戦闘回避を進言したとされますが聞き入れられず、結果として秀忠と共に本戦には遅参しています。慶長11年(1606)に死去、享年59歳、遺骸は菩提寺である善導寺に葬られました。大須賀忠政は康政の長男として生まれ、母方の実家である大須賀康高に嗣子がいなかった為、養子として大須賀家に入りました。天正18年(1590)に上総久留里領3万石が与えられ、慶長6年(1601)に遠江横須賀6万石で移封し横須賀藩初代藩主となっています。慶長12年(1607)に死去、享年27歳、戒名「花馨院殿泰誉岩捜安大居士」、遺骸は大須賀家の菩提寺である撰要寺(静岡県掛川市)に葬られました(忠政の嫡男である忠次が榊原家を継いだ際、善導寺に分骨されたのかも?)。榊原康勝は康政の3男で長男である忠政が大須賀家の養子となり、次兄が早死にした為、館林藩2代藩主に就任しました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣では戦功を挙げ、慶長20年(1650)の夏の陣では豊臣方の主力の1つでもある木村重成隊で損害を与えたものの、毛利勝永隊には事実上敗戦し多くの死傷者を出し、本人も持病である腫れ物が悪化し同年に死去しています。享年27歳、戒名「心光院殿長誉了英大禅定門」、遺骸は菩提寺である善導寺(館林市)に葬られました。花房氏は康政の側室で康勝の生母、出生は諸説有り。南直道は由良成繁、国繁の家臣でしたが小田原の役後に浪人となり、その後康政の側近になりました。康政が死去した三日後に行われた葬儀が恙無く終えると殉死、康勝は痛く感動し康政の墓の隣に葬られました。戒名「腹誉道切信士」。善導寺の境内には榊原康政、大須賀忠政、榊原康勝、花房氏、南直道の墓碑が建立されています。

【 寺  号 】 善導寺
【 所在地 】 群馬県館林市楠町
【 創建年 】 和銅元年(708)
【 開  山 】 行基菩薩(奈良時代の高僧)
【 開  基 】
【 山  号 】 終南山
【 宗  派 】 浄土宗
【 本  尊 】 阿弥陀如来
【 備  考 】 榊原康政の墓附同画像−群馬県指定史跡−指定日:昭和28年
榊原康政、大須賀忠政、榊原康勝、花房氏、南直道の墓
群馬県大名菩提寺
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