大胡城(前橋市)概要: 大胡城は藤原秀郷(平安時代中期の貴族兼武将、平将門を追討した事で下野国、武蔵国の国司となった。)の後裔とされる大胡氏の居城として戦国時代の天文年間(1532〜1555年)に築かれとされます。大胡氏は平治物語や平家物語、吾妻鏡などで散見出来、将軍の護衛兵192騎中7番目に位置していた事からも鎌倉時代は有力御家人だった事が窺えます。
大胡氏は当初、城下にある養林寺付近に館を構えたとされ、戦国時代に入りより強固な城郭が求められ大胡城を築いたと思われます。天文10年(1541)に金山城主横瀬泰繁(横瀬家7代、上野の国人領主)の圧力により大胡氏は武蔵牛込城へ逃れ、大胡城には横瀬氏の家臣である増田繁政が入ります。
増田氏は4代続いたとされますが上杉謙信(春日山城の城主)の上野国侵攻により主家である横瀬氏は小田原北条氏に転じた為、上杉方に攻められ大胡城は落城したと見られ、以後は上杉家に従った北条高広(独立性が高く長尾:上杉と武田を何度も主を変え最後は上杉家の奉行として活躍した。しかし、御館の乱で上杉景虎を支持した事で没落します。)が城主となっています。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると、家督争いである御館の乱が発生し、上杉景勝と密約を交わした武田勝頼が上野国に侵攻、北条高広は武田家に従うようになり、高広は厩橋城(前橋城)、一族で大胡氏の名跡を継いだ大胡高繁が大胡城の城主となっています。
天正10年(1582)、織田・徳川連合軍による武田領侵攻により武田家が没落すると、織田家の家臣である滝川一益が上野国に侵攻、しかし、同年に発生した本能寺の変で織田信長が滅すると後ろ盾を失った滝川一益は小田原北条氏に敗れ自領に引き上げます。
その後は小田原北条氏が大胡城を管理していたと思われますが、天正18年(1590)に小田原の役で北条氏が滅ぶと関東一帯は徳川家康の所領となり、大胡城には牧野康成(徳川家譜代の家臣)が2万石で入り大胡藩が立藩します。
この頃、大胡城は大改修され近世城郭として整備されたと思われますが2代牧野忠成が元和2年(1616)に越後長峰城(上越市吉川区長峰)5万石へ加増移封され大胡藩は廃藩、大胡城は前橋藩が接収され建物などは解体され前橋城の用材として持ち運ばれたそうで形式上廃城となります。
その後は寛文9年(1669)に前橋藩から城代が派遣され当地域の行政、軍事の拠点として大胡衆や大胡組と呼ばれる家臣団が配され、寛文11年(1671)には大胡目付支配となています。寛延2年(1749)に酒井忠恭が姫路藩に移封になると、大胡城の利用が無くなり事実上の廃城となっています。
大胡城は並郭式平山城で本丸を中心に囲むように二の丸、南側に三の丸、4の丸、北側に北城、近戸郭をを配し、それぞれを空掘と土塁で分断、外側の荒砥川と支川を天然の堀に見立てています。大胡氏は赤城神社を篤く信仰していた事から近戸郭には三夜沢赤城神社の分霊を勧請し近戸神社(現在の大胡神社)を創建、城の鎮守社としています。
現在も本丸、2の丸、近戸郭周辺には土塁や空掘の遺構が良く残り、一部石垣も見られます。大胡城の跡地は中世の城郭として貴重な事から昭和42年(1967)に群馬県指定史跡に指定されています。
大胡城:上空画像
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