織田信雄と楽山園

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織田信雄と小幡藩との関係

小幡陣屋(群馬県甘楽町)
楽山園
織田信雄・歴史概要: 小幡陣屋(楽山園)は戦国時代に天下統一目前に本能寺の変で自刃した織田信長の次男織田信雄縁の陣屋です。織田信雄は永禄元年(1558)に織田信長と生駒家宗の娘・吉乃との間に生まれ、永禄12年(1569)に北畠具房の妹の雪姫と政略結婚、天正3年(1575)に北畠家の名跡を継いでいます。その後は北畠家の織田家家臣化を図り、北畠一族や有力家臣を次々謀殺し実権を掌握しました。その後は天正5年(1577)に紀州征伐、天正6年(1578)に石山本願寺攻め、同年に播磨国の神吉城攻めに従軍し確実に地位を確立していきました。天正7年(1579)の第一次天正伊賀の乱で独断で伊賀国に侵攻し大敗した事で信長が叱責を受け、天正9年(1581)に第二次天正伊賀の乱にて織田方の諸侯の協力を得てようやく伊賀国の平定を完遂しています。天正10年(1582)に本能寺の変の際には近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、大きな戦果を得ないままに撤退、これにより織田家の跡継ぎを定める清洲会議では不利となり、一番戦功のあった羽柴秀吉が推す三法師(織田秀信)が家督を継ぐ事になりました。

その後、信雄は秀吉と与する事で事実上の織田家の当主となり、対立する弟の織田信孝、柴田勝家を掃討しましたが、秀吉が台頭するようになると対立が顕著となり、今度は徳川家康と同盟を結びます。天正12年(1584)には小牧・長久手の戦いが発生し、主戦場では勝利したものの、領地である伊勢では戦局が不利となり、独断で豊臣家と講和を結び、事実上秀吉に臣従する事になり概ね100万石の領地が確定しています。天正18年(1590)の小田原の役でも豊臣軍として従軍し伊豆韮山城攻防戦や小田原城包囲戦の勝利に貢献しています。秀吉による奥州仕置きの一環で小田原北条家の旧領に徳川家康が入り、徳川家の旧領に信雄が入るを命じられると難色を示した事が原因により改易、流罪となり下野国烏山や出羽国秋田(秋田では女児を設けたとの伝承が残されています)、伊予国に流されます。文禄元年(1592)に許され、1万8千石で復権するものの、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは東西中立を保った為再び改易となり、慶長19年(1614)の大坂の陣で徳川方として大坂方の内情を知らせた功により5万石で再び復権を果たしています。

この時与えられたのが大和国宇陀郡3万石と上野国甘楽郡2万石で、上野国甘楽郡には後の小幡陣屋の前身となる大名庭園が作庭されたとも云われます。織田信雄は文化人としての側面を持ち、茶に用いる名水を求めて京都府京都市中京区塩屋町の崇徳院御所跡にある清泉(柳水)が利用出来るように屋敷を構えた事でも知られています。楽山園は信雄の意向が強く反映した名園とも云われ石高には見合わない規模と格式を有しています。織田信雄は寛永7年(1630)4月30日、京都北野邸で死去。享年73歳。戒名:徳源院殿実巌常真大居士。信雄が楽山園を見学したのかは不詳ですが城下の一角に境内を構えている崇福寺(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)には信雄の墓碑が建立されています。

その後、上野国甘楽郡2万石は4男織田信良が引き継ぎ小幡藩を立藩、寛永19年(1642)織田信昌が藩主の代に陣屋が完成しています。現在は小幡陣屋の遺構はありませんが、大名庭園である「楽山園」が残され国指定名勝に指定されています。現在、小幡陣屋の復興工事が進められているようで、茅葺屋根の長屋が復元されています。

群馬県の茅葺屋根建築
旧安中藩武家長屋(中山道)織田信雄と楽山園
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