茅葺屋根: 旧武家長屋

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旧安中藩武家長屋:写真

旧安中藩武家長屋(中山道・安中宿)
安中藩・概要: 天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い重臣である井伊直政が箕輪城12万石で入封すると安中城は井伊家の支配下となり、箕輪城の支城として整備拡張されました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでも大功があった為、西軍の中心的な役割を持った石田三成の居城である佐和山城(滋賀県彦根市)18万石に移封となりました。しかし、直政は関ケ原の戦いで大怪我を負っており、それが元で慶長7年(1602)に死去し、長男である井伊直継が継ぎました。直継は居城を佐和山城から彦根城に遷すなどの功績を挙げたものの外交的な性格では無かった為、周囲に取り入った弟の井伊直孝(当時は白井藩の藩主)に期待が集まり、慶長15年(1615)の大坂の陣では直継の出陣が認められず、直孝が井伊家を率いて大功があった為、直継の2代藩主の藩籍が抹消され、直孝が当初から藩主だった事にさせられました。直継には安中領3万石が分知され、安中藩を立藩、城や城下町、領内の整備に尽力し、特に中山道を城下に引き込み新たな町割りを行っています。正保2年(1645)に2代井伊直好が西尾藩に移封になると、代わって新城藩の藩主だった水野元綱が入封、寛文7年(1667)に2代水野元知が改易になると、堀田正俊が入封、天和元年(1681)に古河藩に移封になると板倉重形が入封、元禄15年(1702)に2代板倉重同が泉藩に移封になると、代わって泉藩の藩主だった内藤政森が入封、寛延2年(1749)に3代内藤政苗が挙母藩に移封になると、代わって相良藩の藩主だった板倉勝清が入封すると以後板倉家が安中藩の藩主を歴任しています。明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると安中藩は廃藩となり、それに伴い安中城も廃城となっています。

安中宿・概要: 安中宿中山道の宿場町で、城下町でもあった為人々の往来や物資の集積は他の宿場町と比べて多いと思われがちですが、城下町であるが故風紀に厳しく、飯盛女なども認められなかった為、旅籠も少なく宿泊所としては余り利用されなかったようです。現在は町屋建築が点在するものの、交通量が多く宿場町としての町並みが失われつつあります。一方、旧武家町の大名小路には旧安中藩郡奉行役宅旧安中藩武家長屋、武家屋敷の跡地に建てられたと思われる碓氷郡役所日本キリスト教団安中教会などがあります。

旧安中藩武家長屋・概要: 武家長屋は安中藩の下級武士の生活の場として整備されたもので、一つの建物を数か所で区切る現在でいうアパートのような構成になっています。石高の低い諸藩では家臣でも庭付一戸建が与えられない者も多く、複数の長屋を設け下級武士を住まわせました。間取り的にも部屋数など限定的で武士としての最低限の格式と設備しか設けられていなく厳しい生活が強いられました。このような長屋建築は次々に建て替えられた為、現存するのは大変珍しい遺構で安中市指定文化財に指定されています。

群馬県の茅葺屋根建築
旧安中藩武家長屋(中山道)織田信雄と楽山園
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