崇福寺(織田氏七代の墓:甘楽町)概要: 小幡山崇福寺は群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。崇福寺の創建は不詳ですが3代小幡藩(藩庁:小幡陣屋)の藩主織田信久が織田家歴代の菩提寺とする為、廃寺だった崇福寺を3年かけて再建し臨済宗に改め、立藩当初の菩提寺であった宝積寺から織田家歴代(信雄・信良・信昌)の墓石を当寺の境内に移した、との事が現地案内板に記載されています。文面だけ読めば元々崇福寺は当地にあったが廃寺となりそれを再興したとも読みとれます。ですが、寺号は永禄10年(1567)に織田信長が岐阜城(岐阜県岐阜市)に本拠を移した際、織田家歴代の菩提寺に定められた崇福寺に符号し、現在も存続しています。
その後の織田家の菩提寺は安土城(滋賀県近江八幡市安土町)に移した総見寺とされ、信長の2男信雄も父である信長の菩提を弔う為、領内に同名の寺院を創建し現存しています。又、信長の意思を継いだ豊臣秀吉も一周忌にあたり京都に総見院を創建し菩提寺としています。このような経緯を考えると当地に廃寺になった寺号不明の寺院跡地に堂宇を造営し織田家と縁のある崇福寺と号したと考える方が無難と思われます。小幡藩立藩した当初は名刹である宝積寺が菩提寺になっていましたが、宝積寺の宗派は曹洞宗で、それに対して織田家の菩提寺である岐阜の崇福寺や安土、京都、名古屋の総見寺は何れも臨済宗であった為、小幡織田家でも臨済宗の菩提寺が求められたと思われます。
以後、歴代藩主から庇護され寺運も隆盛しました。明和4年(1767)、7代藩主織田信邦が"明和事件"の不手際から強制蟄居となり跡を継いだ実弟の信浮が高畠藩(山形県高畠町)に移封になった為、崇福寺は庇護者を失い次第に衰退し、宝暦8年(1758)と明治4年(1871)の火災により堂宇が全焼するなど災難が続きます。
現在は本堂の他に位牌堂が再建され歴代小幡織田家の位牌が安置され(幸いにも位牌は火災から免れ、小幡藩祖織田信雄から7代信邦までと移封先の高畠藩の2代信浮、3代信美、さらに大和松山藩の2代高長の位牌が安置されています。)、背後には藩祖織田信雄以下7代(信雄・信良・信昌・信久・信就・信右・信富)の墓碑が並んでいます。
又、崇福寺正面には「下馬」の碑があり、当時勅使門には後醍醐天皇が直筆した「大荘厳域」の勅額があり崇敬の念からここで馬を下りることが決められたそうです。山号:小幡山。宗派:臨済宗妙心寺派。
【 崇福寺菩提者:小幡織田家 】-藩祖である織田信雄は織田信長の次男として生まれ、信長の天下統一への一翼を担い尾張・伊勢・伊賀の3カ国を領する100万石の大名として成長しました。天正10年(1582)、本能寺の変で信長と長男である信忠が自刃すると、成人し一定程度の実績がある信雄、又は3男信孝が相続することが無難と思われましたが羽柴秀吉の画策により信忠の遺児である三法師(織田秀信)が相続し信孝が後見人となりました。
信孝は早くから秀吉と対立し天正11年(1583)に自刃、信雄は織田家最大勢力となり、秀吉と対立、天正12年(1584)には徳川家康と共に小牧・長久手の戦いを起しています。その後は秀吉に従い天正18年(1590)には小田原の役で一定の戦功を挙げましたが、事実上減封となる東海地方への移封を拒否した為に改易となっています。
その後、1万8千石で復権するものの、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで中立だった為に改易、慶長19年(1614)の大坂の陣で徳川方に与して再び復権し大和国宇陀郡3万石、上野国甘楽郡2万石が与えられています。
上野国甘楽郡2万石は信雄の4男である信良が相続し小幡藩(群馬県甘楽町−小幡陣屋)を立藩、その後も信昌・信久・信就・信右・信富・信邦と藩主を歴任し織田信長の後裔である事から国主格が与えられています。
明和4年(1767)、儒学者、思想家、兵学者である山県大弐が江戸幕府転覆の意義を高説した事で不敬罪として死罪、大弐の門弟の1人が小幡藩の家老・吉田玄番だった事から問題視され藩主である信邦は蟄居、養嗣子にされた信浮は高畠藩(山形県高畠町−高畠陣屋)に移封となり国主格も剥奪されています。
実際は吉田玄番が山県大弐を小幡藩の顧問として迎えようと画策したところ当時の崇福寺(甘楽町)の住職が吹聴し、玄番の対立関係だったその他の家臣達が幕府を転覆するなどと問題を大きくすり替え為、幕府に露呈する事になったとされ、信邦にも妾腹に嫡子がいたにも係わらず認められず遠い親戚筋である信浮(柏原織田家の分家筋)を養子として迎えています。崇福寺の境内には織田氏七代の墓が残され甘楽町指定史跡に指定されています。
崇福寺の文化財
・ 織田氏七代の墓−江戸時代−五輪塔−甘楽町指定重要文化財
・ 「下馬」の碑-江戸初期-高15cm、幅55cm、厚さ12cm-甘楽町指定文化財
・ 石造聖観音坐像-室町中期以降-全高51cm、両肩幅35cm-甘楽町指定文化財
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