末社:日枝社

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貫前神社・日枝神社

[ 日枝神社 ]
貫前神社・日枝神社・概要: 日枝神社は貫前神社の末社で神門(総門)から見て左手の平場に鎮座しています(平場は12年に一度行われる遷宮祭の際には御仮殿が設置されます)。案内板によると「日枝神社の現在の社殿は寛永12年以前の旧御本社の本殿を移築したと伝わる。明治42年に近在の氏神である和合神社(田島)、諏訪神社(宇田)、大臣神社(坂井)各社を合祀、大山祇神、他17柱の神々をお祀りしている。」とあります。日枝神社の社殿は、三間社流造(切妻、平入)、銅板葺き、正面3間向拝付き、外壁は真壁造り板張り、木部朱塗り、扉は金箔と黒漆塗り仕上げ、蟇股の三猿は山王信仰の本社である日吉大社で猿を神使としている事から、寛永12年(1635)以降に彫刻されたものと思われます。日枝神社の社殿は少なくとも江戸時代以前に建てられ当寺の貫前神社の様子が判る貴重な存在です。

個人的な推察ですが、一般的に三間社の本殿で扉が3カ所ある場合には3柱が祭られている場合が多いと思われます。現在の日枝神社の社殿が貫前神社の旧本殿であるならば、貫前神社は主祭神である経津主命と姫大神以外にも別の神様が祭られていたとも考えられます。個人的な見解ですが、貫前神社の前身である咲前神社には安閑天皇元年(534)に神石(雷斧石)に3柱が出現し、この事を朝廷に上奏すると奉幣使により抜鉾大神(健経津主命)を祭る社を設けたとの由緒を持ち、祭神として健経津主命、大己貴命、保食命を祭っています。とすれば、貫前神社も本来、健経津主命、大己貴命、保食命の3柱が祭らていた可能性が極めて高いと思われます。健経津主命は現在の貫前神社の祭神である経津主命と同神と思われます。保食命は日本神話に登場する女神である大気都比売神(オオゲツヒメ)と同神で穀物・養蚕の神として信仰されています。そして、貫前神社の祭神である姫大神も養蚕機織の神として信仰されている事から大気都比売神(オオゲツヒメ)と同神である可能性があります。そして、残る大己貴命は日吉大社西宮の祭神でもあります。以上の事から察すると、貫前神社の社殿は現在の位置では無く、日枝神社の社殿(旧本殿)の位置にあって健経津主命(抜鉾大神)、大己貴命、保食命(姫大神)の3柱が祭られ、寛永12年(1635)に3代将軍徳川家光によって現在の社殿が造営されると健経津主命(抜鉾大神)、保食命(姫大神)の2柱が遷宮し、残った大己貴命が日枝神社の祭神として同地に留まったと推察出来ます。貫前神社の遷宮祭では態々日枝神社の前面の空地に御仮殿が設置されるのも、旧地に健経津主命(抜鉾大神)、保食命(姫大神)が戻り一連の歴史の再現が由来になったのかも知れません。さらに、日枝神社が鎮座する平地には貫前神社の境内の中でも最も樹齢が高く大木であるスダジイ(推定樹齢千年)と銀杏(推定樹齢6百年)があるのも、こちらの方が歴史が深い事を物語っています。よって貫前神社は三神一社説、主祭神は抜鉾大神だったという説が成り立ちます。

上記の三神一社説を補完する根拠の1つとして神官家(別当家)の力関係の変化にも見て取れます。貫前神社を創建に関わったとされる物部姓磯部氏の一族の後裔とされる尾崎家が古代から中世にかけて奉斎の中心を成し、尾崎家が別当寺院として創建したのが天台宗の寺院である光明寺です。天台宗の守護神は当然山王信仰の本社である日吉大社である為、貫前神社にその祭神である大己貴命が祭られる事は相応しかったと思われます。しかし、江戸時代に入ると、今まで権神主に甘んじていた一宮家が突然大宮司となり貫前神社の祭祀権を尾崎家から奪い取る形となりました。そして、一宮家が創建した別当寺院である三会寺は曹洞宗であった為、逆に大己貴命を祭る必要性は無かったと思われます。以上のように江戸時代を堺に大宮司の政権交代が天台宗から曹洞宗系へと大きく変化し祭神を分断したとも考えられます。

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