貫前神社

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概要・歴史・観光・見所
貫前神社(富岡市)概要: 貫前神社は群馬県富岡市一ノ宮に鎮座している神社で、見下ろした貫前神社の楼門(神門=随身門)創建は安閑天皇元年(532)、物部姓磯部氏が氏神である経津主神の分霊を勧請して鷺宮に奉祀したのが始まりと伝えられています。一方、旧境内地である群馬県安中市鷺宮には現在、鷺宮咲前神社が鎮座し、伝承によると国譲り神話の際、諏訪に逃げ込んだ建御名方神を追ってきた経津主神が陣を構えた地とされ、安閑天皇元年(532)に神石(雷斧石)に神が降臨した事から抜鉾大神(経津主神)を祭るようになったと伝えられています。元々の上野国(現在の群馬県)は上野国造である上毛野氏が支配し、上毛野氏の祖神(豊城入彦命)が祭られている赤城神社(群馬県前橋市:大洞・三夜沢・二宮)が上野国では最もと格式が高い神社だったと思われますが、当地の豪族磯部氏は中央の朝廷と結びつく事で物部姓を賜り、上毛野氏を凌ぐ勢力になった事から貫前神社が赤城神社を上回る格式を得るようになったと推察されます。

【 貫前神社周辺の古墳 】−貫前神社の周辺には5世紀末期頃から突然集落が発生し6世紀初頭から7世紀にかけて約20基の古墳が築造され一ノ宮古墳群が構成されてます。古墳時代後期の豪族居館跡も発見され、当地域を支配した豪族の本拠地だった事が窺えます。一ノ宮古墳群と物部姓磯部氏、貫前神社の関係性は不詳ですが古墳の築造年代、貫前神社の創建年代はかなり近いものがあります。

一ノ宮古墳群の主な古墳
名称
場所
形式
規模
築造年代
備考
一ノ宮4号墳群馬県
富岡市
田島
前方後円墳全長約48m6世紀初頭市史跡
堂山稲荷古墳群馬県
富岡市
一ノ宮
字概平
前方後円墳墳長42m
前方部幅36.3m
前方部高さ4.5m
後円部径28m
後円部高さ5.5m
6世紀中期 
太子堂塚古墳群馬県
富岡市
一ノ宮
字稲荷森
前方後円墳墳長57.9m
前方部幅59m
前方部高さ7.5m
後円部高さ10.5m
6世紀後半市史跡
稲荷森古墳群馬県
富岡市
一ノ宮
字稲荷森
円墳径約28m
高さ約1.5m
7世紀 

【 武蔵国造の乱 】−又、安閑天皇元年(532)に武蔵国造の笠原直使主と笠原直小杵の勢力争いである所謂「武蔵国造の乱」が発生、上毛野君小熊は小杵に与し、使主は朝廷の強力を経てその乱を鎮めた事から、上毛野氏の勢力が著しく衰退した可能性があり、奇しくも乱の発生年と上記の由来の創建年と一致しています。一方、磯部氏は朝廷方に与し大きく勢力を拡大したと見られ、後年「物部」姓を賜うなど重用されたと思われます。

【 ポイント 】安閑天皇元年(532)は上野国にとってターニングポイントになった年です。そもそも上野国の弥生時代は毛人国とも呼ばれ大和王権とは対立した独立国で、大和王権の一員になった後も半独立を維持し上毛野君の謳歌が続いていました。それが安閑天皇元年(532)に発生した武蔵国造の乱を契機に朝廷の権力が当地まで浸透したと考えられるのです。上毛野君の氏神でもあった赤城神社よりも格式が高い貫前神社が同年に創建された事も如実にこの事実を表しているものと思われます。そして、境内周辺には突如として古墳が築造される。これは、上毛野君を抑える為に朝廷から派遣された物部姓磯部氏が一族と共に当地に赴任した事を示しているのではないでしょうか。

【 貫前神社の祭神 】−貫前神社の創建は祭神について諸説あり良く判っていません。1説には元々の祭神である抜鉾大明神は安閑天皇(第27代天皇・在位:531〜536年)に日本に渡来し笹岡山(上野国と信濃国の国境に位置する山)に鉾を立て鎮座したとされます。

又、1説には南天竺に位置した狗留吠国の有力者である玉芳大臣の末娘である好美女が狗留吠国の王からの求婚から逃れる為に天の浮舟にのって日本に渡来すると笹岡山に居を構え、その後、諏訪大社上社の祭神である諏訪大明神(建御名方神)が日光二荒山の母神を訪れる道中で見初められ夫婦になると、妻神だった諏訪大社下社の女神(八坂刀売神)が御怒りになり、上野国甘楽郡尾崎郷の成出山に社を設けて好美女を移したそうです。当時、上野国一之宮は赤城大明神でしたが、赤城大明神が絹布を織るに従って生糸が不足し国が疲弊した事で、それを好美女が豊富な財力で助けた事から上野国一之宮を譲られ、好美女が鉾を脇に抱えていた事から抜鉾大明神と呼ばれるようになったとされます。抜鉾大明神は荒船大明神とも呼ばれ、建御名方神との間に生まれたのが長野県佐久市に鎮座する新海三社神社の祭神である興波岐命とも云われています。

又、1説には貫前神社の元の境内地だった上野国碓氷郡鷺宮は、国譲り神話の時代に建御名方命(諏訪大社の祭神=諏訪大明神)を追ってきた経津主命が布陣した聖地で、安閑天皇元年(532)に抜鉾大神が出現した事を帝に上奏すると、その命により磯部朝臣小倉季氏が社殿を造営して抜鉾大神を祭り、白鳳元年(661)に現在地に遷座し貫前神社になったとされます。

又、1説には安閑天皇3年(534)に荒船山に抜鉾大明神は3人の共を連れて降臨し、その後、上野国甘楽郡尾崎郷丸山崎菖蒲谷に遷り、白鳳6年(666)に社殿が造営され貫前神社が創建したとされます。

抜鉾大明神には俗体(本地仏:弥勒菩薩)と女体(本地仏:観音菩薩)があり、俗体が経津主命、女体が姫大神(貫前神)としています。又、別説として、抜鉾大明神は物部氏の氏神である経津主命で、姫大神(貫前神)は渡来人が母国から奉斎した織物の女神としています。

【 ポイント 】安閑天皇元年(532)に発生した武蔵国造の乱を機に朝廷の命により当地に扶植した物部姓磯部氏と同時に降臨したという抜鉾神は当然、磯部氏の氏神と考えるのは無難と思います。抜鉾神については良く判りませんが、鉾を抜く神である事から武神と思われ、現在では物部氏の氏神の経津主命と同義とされています。個人的には磯部氏が物部氏の一族である石上氏(いそのかみうじ)と同族と考えると、石上氏が神官を勤めた石上神宮の御神体である布都御魂剣に興味を持ちました。布都御魂剣は建御雷神の愛刀で出雲の国譲りを完遂し、神武天皇の東征にはその霊力により勝利を導いています。このように磯部氏は剣や鉾を信仰の対象にしていた可能性が高く、まさしく抜鉾神を祭るに相応しい氏族と思われます。因みに先代旧事本紀によると布都御魂剣は経津主命の神魂と説明しており、古事記では建御雷神(武甕槌命)と経津主命を同一神と表現しています。

一方、姫大神(貫前神)は想像するのがかなり難しい神様です。抜鉾神が勧請される前に当地に鎮座していた地主神なのか、当地に移住した織物技術を持った加羅(伽耶)系の渡来人が氏神として祭った神なのか判断が難しいところです。確かに下仁田街道沿いには渡来人の痕跡が数多く残っており角度の高い話です。一方、降臨地である荒船山は山頂部が船の形をした断崖で大変特徴的な景観である事から、当然、古代人の信仰の対象に成るべく山容をしています。荒船山の遥拝所として社を設ける例も多くこちらも角度が高いと言えます。

【 神道集 】−「神道集」の「上野国一之宮事」によると、赤城大明神が絹の機織りをした事で、上野国から絹が少なくなり疲弊した為、財があった抜鉾大明神(貫前神社の祭神)が助けました。これにより赤城大明神は、抜鉾大明神に上野国一之宮を譲り、自らは二之宮になった事が記載され、真偽の程は判りませんがどこかの時点で逆転した事が窺えます。因みに、長野県(信濃国)と群馬県(上野国)と新潟県(越後国)の県境に聳える三国山(標高:1636m)には、信濃国一宮である諏訪神社(長野県諏訪市・下諏訪町・茅野市)、越後国一宮である弥彦神社(新潟県弥彦村)の祭神が祭られているの対し、上野国では二宮の赤城神社の祭神が祭られています。

【 貫前神社の格式 】−貫前神社は記録的には平安時代の大同元年(806)に編纂された法制書である「新鈔格勅符抄」に「上野抜鉾神 二戸」と記載され、続日本後紀では承和6年(839)に従五位下、日本三代実録では貫前神社の拝殿に設けられた向拝、極彩色に彩られた外壁貞観元年(859)に従四位下、貞観9年(867)に従四位上、貞観18年(876)に正四位下、元慶3年(879)に正四位上、元慶4年(880)に正四位上、日本紀略では寛平3年(891)に正三位、扶桑略記では延喜16年(916)に従二位、上野国交替実録帳では長元3年(1030)に正一位に列した事が記載されています。古文書や歴史書には貫前神社と拔鋒神社の2社の社名が記されている事から、2神(経津主神・比売大神)2社説(2社は全く異なる神社)と1神1社説(貫前神社と拔鋒神社は同義)があるようです。延長5年(927)に編纂された"延喜式神名帳"では貫前神社が名神大社に列していて、上野国(群馬県)で記載されている式内社の12社(上野国十二社)中の筆頭である一ノ宮として信仰を広げました。

【 貫前神社と為政者・領主 】−歴代領主や周辺の大名、為政者からも信仰され、境内にある「藤太杉」は、貫前神社本殿の全景、光沢のある黒漆塗りの外壁藤原秀郷(俵藤太)が平将門討伐の戦勝祈願する為に貫前神社を訪れた際、自分の当時の年齢36歳に因み36本の杉苗を献木した最後の1本と伝えられています。中世以降は上杉氏や小田原北条氏、武田氏は篤く崇敬され、武田氏にいたっては社殿の造営費用を信濃四郡の棟別に課して賄ったとされます。特に天正19年(1591)には徳川家康から176石余の朱印を賜り江戸時代に入ると幕府から庇護され、3代将軍徳川家光や5代将軍徳川綱吉が社殿の造営や改修を行っています。又、境内は下仁田街道(上州姫街道)一ノ宮宿に位置していた事から、街道を利用した上人や、旅人の多くが参拝に訪れ、門前町と同化した一ノ宮宿には茶屋や女郎宿なども軒を連ね大いに賑わいました。江戸時代末期に水戸天狗党が上洛した折、下仁田街道(姫街道)を利用、当地を通過した際に当社で参拝を行ったとされ、追討令が出ていた高崎藩(藩庁:高崎城)、七日市藩(藩庁:七日市陣屋)、小幡藩(藩庁:小幡陣屋)は境内で対策を協議したとも云われています。

江戸時代後期以降になると当地域の特産物となった養蚕業に関わる人が増大し、貫前神社の祭神である姫大神は養蚕と機織りの守護神だった事から、養蚕農家や生糸商人、近隣の関係者の信仰の対象となり慶応2年には千人以上の献金を集め唐銅製燈籠が奉納されています。明治時代に入ると官営工場である富岡製糸場(ユネスコの世界遺産)が創設され益々関係者から信仰され貫前神社には多くの参拝者が訪れました。古くから神仏習合し、別当寺院として三会寺、光明院、大乗院、神宮寺があり境内には三重塔をはじめ観音堂や仁王門など多くの堂宇が軒を連ねていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により多くが廃寺に追い込まれています。明治時代に入り旧社号と思われる「貫前神社」に改められ明治4年(1871)に国幣中社、太平洋戦争後は本庁別表神社に列しました。祭神:経津主命、姫大神。

【 貫前神社の別当寺院 】−別当寺院の1つ光明院は平安時代後期の天元4年(981)、貫前神社の境内社である謎の多い月読社神官家である尾崎氏が開基となり創建した寺院です。又、和漢三才図会によると天徳4年(960)に神官である尾崎志摩守光明の開基したと記載されています。祭祀は尾崎氏の被官が社僧として行い、「栗の木坊(神宮寺)」と「大坊(大乗院)」が直末寺で最盛期には末寺36ヵ寺、江戸時代には寺領30石が安堵され末寺20ヵ寺を擁していました。貫前神社の境内には三重塔や神宮寺、経堂、観音堂、仁王門などが建てられていましたが、明治時代の神仏分離と廃部希釈運動により仏教色の強い建物は破却され、末寺10ヵ寺が没落しました。光明院も明治15年(1882)に無住となり荒廃が進みましたが、その後上州一宮駅前に境内を移して尾崎山光明院阿弥陀寺(天台宗)として再興しています。明治17年(1884)に当時の住職日々遜が自由民権運動の活動家の一人として群馬事件に関わった事から境内には「群馬自由民権の碑」が建立されています。寺宝である木彫阿弥陀如来坐像(附:金銅製十一面観音懸仏)は昭和52年(1977)に富岡市指定文化財に指定されています。

貫前神社別当寺院の1つ一宮山三会寺は安土桃山時代の天正7年(1579)、当時の領主である小幡家の一族である一宮氏友が開基となり開かれたと伝えられています。江戸時代に入ると一宮家は貫前神社の大宮司に就任し、光明院系の尾崎家とは対立関係にあったそうです。三会寺は明治時代の神仏分離令後も曹洞宗の寺院として寺基は維持されました。

【 貫前神社の境内・社殿 】−境内は「下り宮」あるいは「下り参りの宮」と呼ばれる形式で参道を一旦登った後、貫前神社本殿脇に鎮座している抜鉾若御子神社総門から下った所に社殿が配置されている独特なもので草部吉見神社(熊本県阿蘇郡高森町)、鵜戸神宮(宮崎県日南市)と共に日本三大下り宮に数えられています。極彩色に彩られた壮麗な意匠が施されている社殿は寛永12年(1635)、3代将軍徳川家光が再建したものを5代将軍綱吉が改修したもので本殿(本殿は単層2階建という独特な社殿形式を持っていることから「貫前造」と呼ばれています)は明治45年(1912)、拝殿 、楼門が昭和51年(1976)に国指定重要文化財に指定されています。

【 ポイント 】社殿の見所は何と言っても本殿屋根正面の設けられた「雷神の小窓」です。祭神のポイントでも述べましたが、抜鉾神と関係が深いと推定した布都御魂剣の所有者が建御雷神で、その建御雷神が雷神なのです。富岡市には雷に因むものが複数あり、大字「神成」は建御雷神(武甕槌命)と経津主命が建御名方神を追って当地を通過した事に由来するそうですが、当然、「神成」は「雷」に通じるものがあります。貫前神社の正面南東方向にはその名もズバリ雷電神社が鎮座し、その延長上には甘楽町になるものの石上神社が鎮座し布都御魂大神が祭られています。一方、「雷神の小窓」の向いている方向には稲含山が聳え、そこに鎮座している稲含神社には経津主命が祭られています。

【 鹿占習俗 】-日本では亀の甲羅を焼き目を入れ、ひびの入り方で吉凶を占う、所謂「亀ト」が有名ですが、これは中国の段の時代に発祥したと推定され、日本には仏教の伝来された大凡6〜7世紀頃に伝わったと考えられています。一方、日本では弥生時代には既に動物の骨を焼いて吉凶を占う風習が存在していた事が判っており、その代表的なものが鹿とされ、貫前神社では特に鹿の雄の肩骨を利用しています。現在、神社で鹿の骨を利用して占いを行っているのは貫前神社の他、武蔵御嶽神社(東京都青梅市御岳山・太占祭:1月3日、鹿の肩甲骨を斎火で焙り、出来た亀裂、ひびの位置で今年の農作物の出来、不出来を占う)や阿伎留神社(東京都あきる野市・「神伝鹿卜秘事記」が伝えられています)にその痕跡が窺えます。貫前神社は日光二荒山神社(栃木県日光市山内)から送られてきた雄鹿の肩骨を毎年12月8日に焼いた錐で突き刺し、それにより生じたヒビの状況により甘楽郡内の旧31カ村を「大吉」・「中吉」・「小吉」・「吉」・ 「凶」に分類する事での吉凶を占っています。上記のように、現在では全国的に見ても極めて稀な神事の一つで大変貴重な事から昭和55年(1980)に名称「貫前神社の鹿占習俗」として国選択無形民俗文化財に選択され、昭和56年(1981)に群馬県指定重要無形民俗文化財に指定されています。

【 御戸開祭 】-御戸開祭は貫前神社の例大祭に位置付けられる大切な神事で、毎年、春祭にあたる3月14日と秋祭りにあたる12月12日に行われます。平安時代以降、朝廷からの勅使の参向以外には利用されない事から「不明門」の別称がある勅使門は、御戸開祭と流鏑馬祭の1年に3回だけは開放され、身を清めた参加者が西回廊前で修祓を受け、石段を上り、勅使門をくぐり、総門前で手水の儀、七ツ皿の儀、オケホケの儀が執り行なわれます。そして、総門から再び境内に入り、石段を降りて修祓を行い、献饌、祝詞奏上、舞の奉納、玉串奉奠などが行われ、最後に撤饌し御戸開祭は終了します。御戸開祭における神饌の内容は調理方法や、種類、品数など古式に倣い、細かく定められているもので、貫前神社にとって最も重要視する神事の一つである事が窺えます。

貫前神社の文化財
・ 本殿-寛永12年-三間社,春日風,一重2階,檜皮葦-国指定重要文化財
・ 拝殿-寛永12年-三間社,入母屋,檜皮葦,正面軒唐破風-国指定重要文化財
・ 楼門-寛永12年-一間一戸,四脚楼門,入母屋,銅板葺-国指定重要文化財
・ 白銅月宮鏡-八稜鏡,唐鏡,春日局が貫前神社に奉納-国指定重要文化財
・ 銅鏡2面(鎌倉時代:梅雀文様・室町時代:竹虎文様)-国指定重要文化財
・ 鹿占習俗-鹿の肩甲骨を焼き,ヒビにより吉凶を占う-国選択無形民俗文化財
・ 鹿占習俗-鹿の肩甲骨を焼き,ヒビにより吉凶を占う-県指定無形民俗文化財
・ 奉納鏡-貫前神社には様々な時代、形状の鏡が奉納-富岡市指定文化財
・ 唐銅製燈籠(1対)-慶応元年,青銅製,高さ約395p-富岡市指定文化財
・ スダジイ-推定樹齢千年,樹高10m,根周4m-富岡市指定天然記念物

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

貫前神社:境内・本殿・楼門・写真

境内高台から見下ろした貫前神社境内(象徴的な景観画像)
[ 付近地図: 群馬県富岡市一ノ宮 ]・[ 富岡市:歴史・観光・見所 ]
結構急な参道石段から見上げた貫前神社大鳥居と青空 貫前神社境内入口である総門(切妻、銅板葺き、一間一戸、四脚門) 富岡市の文化財で絹関係者が寄進した貫前神社唐銅製燈籠 貫前神社楼門(随身門)の全景、左右に翼舎、手前にが見えます
右斜め前方から見た壮麗な貫前神社拝殿 右斜め前方から見た格式のある貫前神社本殿と透塀 貫前神社社殿(拝殿・本殿)の全景とそれを取り囲む玉垣 神事が奉納される規模が大きい貫前神社神楽殿
祭事の時しか開かない貫前神社勅使門・勅使鳥居 貫前神社の旧本殿である末社日枝社の格好いい社殿 貫前神社の境内にあるスダジイの大木 貫前神社の境内にある銀杏の大木

貫前神社:歴史的建造物(社殿・境内社など)

本殿本殿(国指定重要文化財)
・本殿は寛永12年(1635)に3代将軍徳川家光の命により造営されたもので、入母屋、檜皮葺、妻入、単層2階(貫前造)、妻面に「雷神小窓」付、外壁は極彩色総漆塗り、間口3間、奥行3間、正面3間向拝付、三方浜縁、高欄、脇障子付。
拝殿拝殿(国指定重要文化財)
拝殿は寛永12年(1635)に3代将軍徳川家光の命により造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、檜板葺、正面軒唐破風、平入、桁行3間、梁間3間、三方浜縁、脇障子付、外壁構造部は朱漆塗、建具部は黒漆塗、欄間部は極彩色で彩られています。
楼門楼門(国指定重要文化財)
・神門(随身門)は江戸時代初期の寛永12年(1635)に3代将軍徳川家光によって造営されたもので、一間一戸、入母屋、銅板葺、四脚楼門、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ(一部の彫刻は極彩色)、木部朱塗り、上部部桁行3間、高欄付、左右回廊付き(木造平屋建て、切妻、銅板葺き、桁行5間、梁間2間、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、格子戸緑色塗り、内部に随神安置)、通常楼門中央の開口部からは出入り出来ず、楼門と左右の回廊の間に向けられた脇戸が利用されています。
日枝神社日枝神社
・日枝神社の社殿は寛永12年(1635)以前に貫前神社の本殿として造営されたもので、本殿が新築された際に当地に移築されました。その後は日吉大社東本宮の祭神である大山咋神が祭られていましたが明治42年(1909)に近郷の神社が合祀されています。三間社流造、銅板葺。
総門総門
・総門は、切妻、銅板葺、一間一戸、四脚門、両脇袖壁潜戸付、木部朱塗り。境内の最高所に位置し、ここを潜ると下りの石段が続き、拝殿前の楼門に至ります。総門の前には慶応元年(1865)に奉納された唐銅製燈籠(富岡市指定文化財)が建立されています。
勅使門・勅額鳥居勅使門・勅額鳥居
勅使門の初代は朱雀天皇の時代(930〜946年)に勅使参向の際に設けられたのが始まりとされます。勅使参向の時以外は利用されなかった事から「不明門」の別称があり、現在も御戸開祭と流鏑馬祭のみの開閉となっています。切妻、銅瓦棒葺、一間一戸、棟門。
神楽殿神楽殿
・神楽殿は木造平屋建、入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間3間、外壁は正面2方は引き違い建具、背面2方は真壁造り板張り、正面2方高欄、脇障子付、社殿とは対照的に華美な装飾を排した素朴な意匠となっています。貫前神社に伝わる多くの神事が執り行われる舞台となっています。
抜鉾若御子神社抜鉾若御子神社
・抜鉾若御子神社は貫前神社の摂社で、安閑天皇の御代に創建され、上野国神明帳にも従五位に列していた事が記載、明治38年(1905)に現在地である本殿脇に遷座しています。現在の社殿は文化12年(1815)に造営されたもので、一間社流造、銅板葺。
月読神社月読神社
・月読神社の社殿は寛永12年(1635)以前に貫前神社拝殿として造営されたもので、拝殿が新築された際、牛王堂の堂宇として利用され、明治時代の神仏分離令により仏教色が一掃されると月読神社の社殿となりました。入母屋、妻入、銅板葺、外壁は真壁造り板張り、木部朱塗り。
二十二社二十二末社
・寛永12年(1635)に貫前神社の社殿を造営した際に、社領内に鎮座していた末社22社(竈神社、菅原神社、沓脱神社、速玉男神社、粟島神社、春日神社、奇八玉神社、諏訪神社、八幡宮、事解男神社、咲前神社、浅間神社、高?神社、少彦名神社、長田神社、伊邪那岐神社、八坂神社、白山比盗_社、熊野神社、水分神社、熱田神社、扣神社。)を当地に遷座し、一つの社殿で祭るようになった事から二十二末社と呼ばれるようになったとされます。二十二間社流造、銅板葺。


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