雷神小窓(本殿)

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貫前神社・雷神小窓(本殿)

[ 雷神小窓 ]
貫前神社・雷神小窓・概要: 個人的な見解ですが、貫前神社の殆どの謎は江戸時代に大宮司となった一宮家による宗教改革が影響している事が多いと感じています。日枝神社の項でも述べましたが、元々の本殿が建立されてた位置は日枝神社社殿前の平場だった可能性を説きました。そして、江戸時代に下仁田街道が開削される以前は現在の貫前神社の総門の前にある尾根道が主要道だったと考えると、境内は道路とは水平で垂直方向にあり、社殿が略南方を向いていた事になり、さらに、月読神社の社殿が旧拝殿、日枝神社の社殿が旧本殿だとすると、格式は上野国一宮として高かったもののごくごく一般的な境内、社殿だったと思われます。

まず、古代から中世にかけての大宮司だった尾崎家は貫前神社の創建に関わったとされる物部姓磯部氏の一族の後裔とされ、前身の咲前神社の祭神である健経津主命、大己貴命、保食命の3柱を奉斎していた事が旧本殿である日枝神社の社殿が三間社で扉が3カ所だった事からも推察する事が出来ます。当然、主祭神は物部姓磯部氏の祖神である健経津主命こと抜鉾大神である事は明白で、さらに尾崎家が別当寺院として創建した光明寺が天台宗の寺院だった為、天台宗の守護神である日吉大社の祭神と同神の大己貴命を篤く奉斎していた事が窺えます。

一方、一宮家は中世以降、貫前神社の庇護者だった国人領主である小幡家の一族の後裔とされ、別当寺院として創建した三会寺は曹洞宗という関係です。ここで、大宮司となった一宮家にとって気に入らない点が2つあります。それは、大宮司を引きずり落とした尾崎家の祖神とも言える健経津主命(抜鉾大神)を主祭神として奉斎する事と、天台宗の守護神である大己貴命を奉斎する事です。氏子などの関係上健経津主命(抜鉾大神)の排除や社号である抜鉾神社を改名する事は出来ませんが、大己貴命を末社の日枝神社の祭神として分離し、保食命を健経津主命(抜鉾大神)と同格かそれ以上に引き上げこちらを奉斎する事で問題を解決しようと考えた節が見られます。

明確な資料は残されていませんが、小幡氏の居城のあった小幡城の城下町に流れるの水源地が稲含山で、山頂から眺望が開ける事などから、稲含山を御神体とする稲含神社を篤く奉斎していた可能性が高いと思われます。実際、江戸時代に立藩した小幡藩の藩主である織田氏や松平氏も水源地の守護神として篤く奉斎したとの由緒が残され地理的に見ても矛盾が感じられません。そして稲含神社の創建は安閑天皇(第27代天皇・在位:531〜536年)の御代とされ、貫前神社の前身である咲前神社の創建年である安閑天皇元年(534)と合致しています。さらに、祭神である豊稲田姫は印度(インド)から日本に渡り、養蚕や稲作を日本に広めその守護神になったと伝えられ、南北朝時代頃に成立した「神道集」では抜鉾大明神を南天竺狗留吠国(現在のインド国内部の国)長者・玉芳大臣の五女「好美女」とし絹笳を赤城大明神に譲ったと記載されている事から豊稲田姫と好美女(貫前神)は奇妙な一致をしています。そこで、一宮家は保食命(大気都比売神=オオゲツヒメ)が穀物・養蚕の神である事から、保食命(大気都比売神)=豊稲田姫=姫大神(貫前神)と見立て奉斎する事で祖である小幡氏が崇敬した豊稲田姫を事実上祭った事にしたのではないでしょうか。

次に姫大神(貫前神)を健経津主命(抜鉾大神)より上位にする為、社殿を稲含山方向に向ける必要性がありましたが、日枝神社が鎮座している平地では前面の道路に対し社殿が斜めになる為に余りにも不自然な形となり氏子からの反発も予想された為、あえて縁を切って、下り宮にすることで違和感の解消を狙ったものと思われます。実際、下仁田街道からの参道の直線上には日枝神社がある為当初の境内の配置はごく一般的な形式だったものの、現在では総門を堺にくの字を書くように折れ曲がり、後年無理やりこのような参道にしたのが判ります。

貫前神社を下り宮にした事で、社殿を稲含山方向に不自然なく向ける事が出来たものの、今度は社殿から稲含山を望めないという矛盾が生じました。そこで、考案されたのが「貫前造」という独自の形式で実際は稲含山を望めないものの、2階建てにし、さらに2階より高い場所に位置する正面妻面に「雷神小窓」を設けより稲含山を意識させる工夫をしたと思われます(現在「雷神小窓」は雷神が本殿に出入り出来る為と紹介している例が多いようですが、江戸時代中期の元禄年間:1688〜1704年に本殿を改修した際に江戸出身の絵師である梶川政利が雷神の絵を描いている事から、これ以降に流布されたと思われます。旧本殿とされる日枝神社社殿には当然「雷神小窓」は設けられていません)。以上の事から貫前神社の謎の多くが一宮家が大宮司になった際、尾崎家への対抗意識から様々な改革、改変が行われ今までの信仰や境内、社殿との矛盾が奇妙に映ったように感じます。

写真1:境内下り参道 写真2:大鳥居 写真3:総門 写真4:唐銅製燈籠 写真5:楼門 写真6:拝殿 写真7:本殿 写真8:拝殿・本殿
写真9:神楽殿 写真10:勅使門・勅額鳥居 写真11:日枝社 写真12:スダジイ 写真13:銀杏 写真14:楼門拡大 写真15:拝殿軒唐破風 写真16:本殿・透塀
写真17:月読神社 写真18:雷神小窓(本殿) 写真19:抜鉾若御子神社 写真20:下り参道石段 写真21:上り参道石段 写真22:拝殿左斜め正面

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