岩鼻陣屋

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岩鼻陣屋:略データ
・場 所・群馬県高崎市岩鼻町
・築城年・寛政5年
・築城者・江戸幕府
・城 主・吉川栄左衛門貞寛、近藤和四郎、木村甲斐守、大音龍太郎等
・構 造・陣屋
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・年号は不詳ですが武田信玄条書に「岩鼻之執出可破却哉否儀、畢竟可依耕作之有無之事」と記されている岩鼻之執出とは当地の事とされ、武田方の砦(執出)が設けられ、戦略的拠点として利用されていた事が窺えます。

当地は利根川の支流である烏川の左岸に位置し、眼下に中山道が通る水陸交通の要衝だった事から重要視されました。

当初は前橋藩に属していましたが、寛延2年に9代藩主酒井忠恭が老中首座に就任した事に伴い、姫路藩に転封となり、当地は天領となりました。

寛政5年には江戸幕府により岩鼻砦跡に天領陣屋(岩鼻代官所)が設けられ、吉川栄左衛門貞寛と近藤和四郎が初代代官として任命されています。

特に吉川栄左衛門貞寛は名代官として知られ、就任時は天明3年に発生した浅間山の火山活動による被害からの回復途上で、さらに大飢饉によって農地の荒廃が顕著だった事から、田畑の再開発や郷倉の設置等善政を行っています。

文化7年に当地で病死すると陣屋の南側に境内を構えている観音寺の境内に埋葬され、墓碑が建立されています。

岩鼻代官所の管轄領域は上野国の群馬郡、甘楽郡、緑野郡等8郡にわたり合計5万8千7百石に及んでいます。

文化2年には関東取締出役制施行に伴い、岩鼻代官所が拠点となり関東八州全域の治安維持や取締を行っています。

特に当時の上野国の住民は気性が荒く、賭博好きが多く、金回りの良い国柄で、治安の届きにくい温泉街が数多くあった事から無宿人が集まり易かった事から、幕府からも重要視され岩鼻陣屋に拠点が設けられたと思われます。

慶応元年には木村甲斐守が関東郡代として岩鼻陣屋に就任、上野国の天領、旗本領、社寺領、大名預所、武蔵国内六郡、合計50万石余を統括し、混乱する江戸北部の治安維持の拠点として期待されました。

慶応2年には「武洲世直し一揆」が発生し岩鼻陣屋も襲撃を受けましたが、何とか一揆勢の主力を鎮圧しています。

慶応3年には幕府の関東支配の教化の為、関東郡代を廃止し、新たに関東在方掛を設置、関東八州は相模国を除いて、大きく2つに分けられ、常陸国、下総国、安房国は布佐代官所を管轄し、上野国、下野国、武蔵国は岩鼻代官所が管轄しています。

慶応4年に木村甲斐守が罷免されると岩鼻陣屋は高崎藩から接収され、明治元年に明治新政府から岩鼻県庁が設置されています。

初代県知事として大音龍太郎が任命され江戸時代」末期と粗一致する領域が行政範囲に指定され、さらに明治2年に旧吉井藩領を併合しています。

明治3年に岩鼻陣屋が火災で焼失した事もあり、明治4年に群馬県が成立すると、県庁が旧高崎城の城内に遷された為、岩鼻県庁は廃されています。

岩鼻陣屋は烏川北岸に位置し、東西170m、南北250m、周囲を土塁と堀で囲い、南側の大手口には石垣と桝形が設けられていたようです。

現在は日本化薬研修センターとその社宅の敷地として利用されている為、多くの遺構は失われましたが、南側には明瞭な土塁と空堀、東側には切岸、物見台として利用された天神山古墳等が残されています。

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