・役原城は応永8年に白井城の城主長尾景春の3男である長尾重儀(尻高佐馬頭重儀)が築いたとされます。
景春は家臣である河内政右衛門に命じて尻高城を縄張りさせ、応永10年に竣工すると、重儀を城主として配しています。
重儀は地名に因み「尻高」姓を掲げ、尻高家の初代となり、尻高城を居城とし、周辺には支城となる壁谷の塁や八幡の要害、栃瀬の塁等を築いて領内の整備に尽力しています。
版図も拡張し、尻高を中心に大塚、赤坂、平、横尾等を領し、合計2千24石の知行を得ています。
明応年間に子供の尻高重忠に家督を譲ると、重忠が尻高城に入り、重儀は役原城に退き、その後は隠居城として利用したとされます。
戦国時代の尻高氏は岩櫃城主斎藤家に従いましたが、武田信玄の上野国侵攻で、斉藤家が没落すると、武田家に服属しています。
しかし、武田信玄が甲斐国に帰国すると上杉家の支援を得て、武田家に対抗した為、天正2年には武田家の重臣真田幸隆に攻められ、善戦したものの尻高城は落城、当主尻高左馬介景家も討死したとされます。
跡を継いだ尻高義隆は小田原北条氏の支援を受け猿ケ京宮野城で再起を図ったものの、天正8年に真田家の一族で岩櫃城代の矢沢薩摩守に攻められ、自刃に追い込まれています。
これにより尻高氏は滅亡し、尻高城も記録上からは見られなくなった事から役原城も廃城になったと思われます。
役原城は役原川の西岸の段丘に位置し、主郭とその南側に配された台形状の二ノ郭で構成されています。
主郭と二ノ郭の接する部分は堀切で分断され、周囲を土塁と堀で囲い、役原川とその支流を天然の外堀に見立ていたようです。
特に東側は役原川に削られた断崖状の地形になっている事から防衛に適した地形となっています。
現在は築地と畑地になっていますが、土塁と堀の一部が残されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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