・森下城は永禄年間に森下三河守が築いたとされます。
天正8年に武田勝頼の命で当地まで侵攻した真田昌幸が森下城を攻めた際、城将として赴任していた加藤丹波守は昌幸に下り、真田家の家臣になったとされます。
天正10年、武田家が織田・徳川連合軍に敗れ滅亡、さらに同年本能寺の変で織田信長が死去すると、上野国は非常に不安定な情勢となり、その間隙を突いて小田原北条氏が大規模な攻勢を行い、森下城も北条家家臣須田加賀守が率いる大軍によって2重から3重に取り囲まれ絶対絶命の窮地に立たされています。
加藤丹波守は真田家に対して忠義を尽くす為に決戦に臨み、城門を固く閉ざして弓、鉄炮を北条勢に浴びせかけ応戦、時には城内に敵兵を呼び込み、一斉に斉射し大きな打撃を与え追い払っています。
しかし、数刻経つと矢と玉は尽き、弓も折れ、敗戦が濃厚になると加藤丹波守は腹を十文字に欠き切り自刃しています。
ただし、上記の内容は江戸時代中期頃に編纂された「加沢平次左衛門覚書」によるもので、一次資料となる感状や安堵状、宛行状等と合致する部分と、他資料と矛盾する部分もある等、正確性に欠く事から事実かどうかは不詳。
一方、享保11年に編纂された軍記物である「関八州古戦録」と宝暦年間に編纂された「上州古城塁記」には森下城の城主は森下三河守と記されています。
又、天正八年六尽き廿七日には武田勝頼が真田昌幸を通し、森下又左衛門尉に対して、沼田城攻略後の所領の安堵状が発給されており、森下家の実在性が確認されています。
森下又左衛門は沼田城攻めではsなだけの重臣矢沢頼綱隊に従軍し、北条氏直の重臣北条氏邦隊を撃退する功績を上げ、その後、箱崎城の城代を担い、宮野城攻めにも参加する等、真田家にとっても頼れる存在だった事が窺えます。
森下城は片品川が形成した河岸段丘の突端に築かれた崖端城でしたが、現在は突端部の崩落により主郭部が隠滅し、その他も宅地と畑地に改変された事で多くの遺構が失われています。
森下城の城跡は貴重な事から昭和村指定史跡に指定されています。又、近くには加藤丹波守が自刃した地と伝わる腹切石が残されており同じく昭和村指定史跡に指定されています。
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