大間々神明宮(みどり市)概要: 大間々神明宮は群馬県みどり市大間々町大間に鎮座している神社です。鎮座地の周辺地域は元々、伊勢神宮内宮(皇大神宮・三重県伊勢市)の御厨、又は大蔵保だったとされ、大間々神明宮の創建は南北朝時代の貞和3年(1347)、文袋坊が伊勢神宮内宮の祭神である天照大神の分霊を境内地内にある伊勢ヶ渕岩頭に勧請したのが始まりと伝えられています(御厨とは神に捧げる神饌を調理する台所又は調達する領地の意味。
大蔵保とは当地域の行政単位の一つで、大間々町が所属していた山田郡には須永御厨や薗田御厨、広沢御厨、寮米御厨、大蔵保があったとされます)。
ただし、伊勢ヶ渕(高津戸峡)の名称は天照大神(伊勢神宮の祭神)が祀られてた説の他、天正6年(1578)に金山城の城主由良成繁が、当地に侵攻した際、高津戸城が落城し城主里見勝政が討死に、その妻である「伊勢の方」が身を投げたの場所が伊勢ヶ渕岩頭と呼ばれるようになったとも云われています。
慶長2年(1597)に現在地に仮宮を建て2年後である慶長4年(1599)に正式に遷座し黒川郷(渡良瀬川流域の集落)の総鎮守、一之宮、大間々の産土神として信仰され、正徳5年(1715)には豊受大神(伊勢神宮外宮:豊受大神宮)の分霊が勧請されました。
さらに境内地が含まれる上野国山田、勢多両郡5千石分が安永8年(1779)に出羽松山藩領(山形県酒田市松山町)となると歴代藩主の祈願所として庇護され、天保7年(1826)には6代藩主酒井忠方により勢多郡下の勧化が許されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て明治5年(1872)、周辺1町18ヶ村の総鎮守として郷社に列します。
大間々神明宮社殿は伊勢神宮に倣い21年毎に式年遷宮を繰り返し明治12年(1879)まで続きますが明治20年(1887)と明治23年(1890)に火災により社殿が焼失した為、社殿の規模が縮小されました。拝殿は、木造平屋建て、切妻、銅板葺き、平入、所謂「神明造」、桁行3間、正面1間切妻向拝付き、外壁は真壁造板張り。本殿は一間社神明造、銅板葺き。
例祭である祗園祭りは毎年8月1〜3日に行われ稚児行列や山車が町内を練り歩きます。祭神:大日靈命、豊宇気毘売神。銅七福神(弁財天)。
みどり市:神社・仏閣・再生リスト
|