【 須賀家住宅 】−倉賀野宿(群馬県高崎市)の脇本陣職と倉賀野河岸の河岸問屋を歴任した須賀喜太郎家の祖の詳細は判りませんでしたが、中世、当地を支配した倉賀野十六騎(金井淡路守・五十嵐紀伊守・源田主馬頭・富田伊勢守・中島豊前守・須賀佐渡守・後川主膳正・坂井豊後守・勅使河原備前守・金沢筑後守・細野対馬守・福田石見守・福田加賀守・細野但馬守・笠原源右衛門・市川太左衛門)の中に須賀佐渡守の名前が見られる事から後裔又は一族と思われます。当主である倉賀野氏の名跡は金井淡路守秀景が継ぎましたが、天正18年(1590)の小田原合戦の際に北条方に与した為に没落し倉賀野十六騎の多くも帰農し、江戸時代に入り中山道が開削され倉賀野宿(群馬県高崎市)開かれる際には、当地の実力者として協力し、倉賀野十六騎の勅使河原備前守の後裔又は一族と思われる勅使河原八左衛門家が本陣、そして、脇本陣を須賀庄兵衛家と須賀喜太郎家が歴任しています。明治4年(1871)に宿場制度が廃止になると旅籠(旅館)業に転じたようです。現在の須賀喜太郎家主屋は明治36年(1903)の建築で木造2階建、切妻、桟瓦葺、平入、1階、2階共に正面は全面格子戸、2階向かって左側のみ袖ウダツ、1階正面に半間程の下屋庇(桟瓦葺)、主屋右側には江戸時代後期の火災後に再建された表門と番人小屋、敷地背後には裏門(薬医門)と土蔵が配されています。須賀家住宅は明治時代の旅籠建築の名残を現在に伝え、宿場の町並み景観に大きく寄与しています(本陣の勅使河原八左衛門家と脇本陣の須賀庄兵衛家の遺構は失われています)。
【 倉賀野宿 】−倉賀野宿は、中世、倉賀野城の城下町として成立した町で、天正18年(1590)の小田原合戦の際、城主である倉賀野氏(金井氏)は北条方として行動した為、没落し倉賀野城も廃城となています。江戸時代に入る倉賀野宿が開宿すると、大消費地だった高崎城の城下町は風紀が厳しかった為、隣の宿だった当宿が歓楽街的な役割を持ち(飯盛女が多数働き、倉賀野神社の境内には飯盛女が寄進した石灯籠が建立されています)、さらに、中山道と日光例幣使街道(朝廷の例幣使が日光東照宮の例祭にあわせて幣帛を奉献する為に利用した街道。)の結束点という交通の要衝と、利根川舟運の一大拠点となった倉賀野河岸を擁していた事から大きく繁栄しました。
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