高崎城(和田城)

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概要・歴史・観光・見所
高崎城(和田城)概要: 高崎城は慶長3年(1598)、箕輪城の城主井伊直政が主君である徳川家康の命により和田城跡に移り改めて築城したのが始まりです。和田城は鎌倉時代初期、和田正信が築いた城郭で小規模ながら堅城としても知られ、度々上杉軍の侵攻を食い止めています。和田氏はその後、小田原北条氏に属した為、天正18年(1590)の小田原の役で前田利家や上杉景勝などの大軍に包囲され落城、北条家が滅亡すると廃城にされました。高崎の地は三国街道中山道が分岐する交通の要衝で軍事戦略上も重要視された為、徳川家康の命により井伊直政は和田城を大規模に改修、拡張する縄張を行う事で領内経営の中心を箕輪城から遷し、地名も和田から高崎に改称、箕輪城を解体した事で排出された用材や石垣を高崎城に転用したとされます。

【 高崎藩の藩庁 】−慶長9年(1604)に酒井家次が入封し改めて高崎藩が立藩、高崎城の完成には初期の藩主が短期間に何度も交替するなど不安定だった事もあり安藤家なるまで77年という月日を費やしました。城下町に引き込んだ中山道は五街道の一つで西国大名の参勤交代の経路、三国街道は北陸諸将の参勤交代の経路、佐渡金山までの幕府役人や罪人搬送の経路として利用した為、城下に町割りされた商家町、町人町は宿場町としての機能を持ち定期市が立つなど大きく繁栄しました。高崎城の城主は井伊家から始まり酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家(3代)、大河内松平家、間部家、大河内松平家(10代)と有力譜代大名が歴任し重要視されていた事が窺えます。明治4年(1871)の廃藩置県を受け高崎藩が廃藩になると、それに伴い高崎城も廃城となり、多くの施設は破却、取り壊し、払い下げとなり、城地も市街地に開発されました。

【 高崎城の縄張り 】−高崎城は烏川を天然の外堀とし、東側、南側、北側には3重の掘を設け本丸を中心に取り囲むように多くの郭や廓を配し二の丸、三の丸を梯郭式で構成する輪郭梯郭複合式の平城としました。高崎城は本丸の背後を烏川が流れ他の3方向のいは3重の堀と高い土塁で囲い天守閣の代わりとなる御三階櫓の他4方向にそれぞれ隅櫓が設けられ城門は16箇所、その内、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で東門は通用門として使われていた為くぐり戸がついていました。高崎城は明治維新後に廃城となり取り壊されましたが、乾櫓(土造2階建て、入母屋瓦葺き、桁行3間、梁間2間)と東門が移築保存され乾櫓は昭和49年(1974)に群馬県指定重要文化財に東門は昭和55年(1980)に高崎市指定文化財にそれぞれ指定されています。又、本丸、二の丸は市街地化したものの三の丸外堀と土塁が比較的旧状を留めていて「高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)」として昭和57年(1982)に高崎市指定史跡となっています。

高崎城:写真

本丸乾櫓・三の丸東門
[ 付近地図: 群馬県高崎市 ]・[ 高崎市:歴史・観光・見所 ]
石垣(模擬) モニュメント 石垣(模擬) 本丸乾櫓(移築)
三の丸東門(移築) 本丸乾櫓(移築) 外堀1 外堀2
外堀3 三の丸土塁 三の丸土塁 三の丸土塁

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