高崎城

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概要・歴史・観光・見所
高崎城(和田城)概要: 高崎城は慶長3年(1598)、箕輪城の城主井伊直政が主君である徳川家康の命により和田城跡に移り改めて築城した城郭です。和田城は鎌倉時代初期、和田正信が築いた城郭で小規模ながら堅城としても知られ、度々上杉軍の侵攻を食い止めています。和田氏はその後、小田原北条氏に属した為、天正18年(1590)の小田原の役で前田利家や上杉景勝などの大軍に包囲され落城、北条家が滅亡すると廃城にされました。高崎の地は三国街道中山道が分岐する交通の要衝で軍事戦略上も重要視された為、徳川家康の命により井伊直政は和田城を大規模に改修、拡張する縄張を行う事で領内経営の中心を箕輪城から遷し、地名も和田から高崎に改称、箕輪城を解体した事で排出された用材や石垣を高崎城に転用したとされます。

【 ポイント 】高崎城の前身である和田城は中世、代々和田氏が城主を勤めました。和田氏の祖は鎌倉幕府初期の有力御家人である和田義盛としていますが、義盛は源頼朝の死後、勢力争いに巻き込まれ建暦3年(1213)に発生した和田合戦にて一族郎党と共に討ち取られています。そういう意味では義盛を祖とするのには少々無理があるかも知れません。系図上は義盛の8男和田義国が上野国に流れ着き、赤坂村を拠点として再び国人領主として勢力を拡大した事になっていますが、幕府側から見ると罪人である和田氏が容易く復権するとは考え辛く、別系統の和田家が幕府滅亡後に義盛を祖とする系図を書き換えたのかも知れません。

【 高崎藩の藩庁 】−慶長9年(1604)に酒井家次が入封し改めて高崎藩が立藩、高崎城の完成には初期の藩主が短期間に何度も交替するなど不安定だった事もあり工事が中断、本格的な築城は安藤重信が入封してから開始され2代安藤重長、3代安藤重博まで77年という月日を費やしました。城下町に引き込んだ中山道は五街道の一つで西国大名の参勤交代の経路、三国街道は北陸諸将の参勤交代の経路、佐渡金山までの幕府役人や罪人搬送の経路として利用した為、城下に町割りされた商家町、町人町は宿場町としての機能を持ち定期市が立つなど大きく繁栄しました。高崎城の城主は井伊家から始まり酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家(3代)、大河内松平家、間部家、大河内松平家(10代)と有力譜代大名が歴任し重要視されていた事が窺えます。明治4年(1871)の廃藩置県を受け高崎藩が廃藩になると、それに伴い高崎城も廃城となり、多くの施設は破却、取り壊し、払い下げとなり、城地も市街地に開発されました。

【 高崎城の縄張り 】−高崎城は烏川を天然の外堀とし、東側、南側、北側には3重の掘を設け本丸を中心に取り囲むように多くの郭や廓を配し二の丸、三の丸を梯郭式で構成する輪郭梯郭複合式の平城としました。高崎城は本丸の背後を烏川が流れ他の3方向のいは3重の堀と高い土塁で囲い天守閣の代わりとなる御三階櫓の他4方向にそれぞれ隅櫓が設けられ城門は16箇所、その内、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で東門は通用門として使われていた為くぐり戸がついていました。高崎城は明治維新後に廃城となり取り壊されましたが、乾櫓と東門が移築保存され乾櫓は昭和49年(1974)に群馬県指定重要文化財に東門は昭和55年(1980)に高崎市指定重要文化財にそれぞれ指定されています。又、本丸、二の丸は市街地化したものの三の丸外堀と土塁が比較的旧状を留めていて「高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)」として昭和57年(1982)に高崎市指定史跡となっています。

【 東門:概要 】−高崎城東門は三の丸の城下町側にあたる東方に位置し、単層門で潜戸が付いている事から通用門として利用されていたと考えられています。建築年は不詳ですが、寛政10年(1798)と天保14年(1843)に高崎城が火災で大きな被害を受けている事から東門も類焼し再建されたと推定されています。明治4年(1871)の廃藩置県により高崎藩が廃藩となり、明治6年(1873)に廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、又は払い下げとなり、東門は下小鳥町の梅山家が買い取り表門として移築されました。その後、梅山家から高崎市に寄贈された事を受けて昭和55年(1980)に高崎城の城跡である現在地に移築保存される事になりました。高崎城東門は入母屋、本瓦葺き、単層、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、向かって左端が大戸、中央が潜戸、右端が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行ったと思われる藩士の詰所となる番所で武者窓付。

【 乾櫓:概要 】−当初の高崎城の櫓は平屋建て、こけら葺きの質素な建物でしたが江戸時代前期に高崎藩主となった安藤氏の時代に近世城郭へと整備が進み安藤重博が藩主だった時代(明暦3年:1657年〜元禄11年:1698年)に主要な櫓が2層に改築され、乾櫓も同時期に2層になったと推定されています。高崎城の本丸には西側中央に天守閣に見立てた御三階櫓があり、四隅の北西には乾櫓、北東には艮櫓、南東には巽櫓、南西には坤櫓の4棟が配されていましたが、明治4年(1871)の廃藩置県により高崎藩が廃藩となり、明治6年(1873)に廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、又は払い下げとなり、乾櫓は下小鳥町の梅山家が買い取り納屋として移築されました。その後、梅山家から高崎市に寄贈された事を受けて昭和49年(1974)に群馬県指定文化財に指定され、昭和54年(1989)に高崎城の城跡である現在地に移築保存される事になりました。高崎城乾櫓は2層2階建て、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行3間、梁間2間、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高崎城:東門・乾櫓・写真

高崎城の本丸乾櫓・三の丸東門。このアングルが一番かな?
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高崎城の石垣(模擬)。最初は本物かと思いました。 モニュメント。石垣が刳り貫かれ水路が引き込まれる構造だったようです。 石垣(模擬)の上に生える松は中々立派でした。 高崎城の本丸乾櫓(移築)に隣接する土塀と狭間は復元か?
高崎城の三の丸東門は数度の移築が繰り返された歴史を持っています。 本丸乾櫓越に見える群馬音楽センターとの対比が面白いです。 高崎城外堀1。往時と比べると大部狭くなっているそうです。 外堀2。桜の時期に来たかった。
外堀3に写り込むマンションが時代の移り変わりを感じます。 高崎城三の丸土塁。現存する土塁の中では一番高かったと思います。 三の丸土塁。ちょっと色が飛んだかな。 三の丸土塁。洋風な手摺。


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