金井秀景:概要

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概要・歴史・観光・見所
金井秀景(永泉寺)

【 概 要 】金井秀景は倉賀野城(群馬県高崎市)の城主である倉賀野行政に従った倉賀野十六騎(金井淡路守・須賀佐渡守・源田主馬頭・富田伊勢守・勅使河原備前守・市川太左衛門・金沢筑後守・五十嵐紀伊守・中島豊前守・後川主膳正・坂井豊後守・細野対馬守・福田石見守・福田加賀守・細野但馬守・笠原源右衛門)の旗頭として名を馳せ、天文15年(1546)の河越城の戦いで行政が戦死すると、跡を継いだ病弱の倉賀野為広を補佐しています。天文16年(1547)には関東管領の上杉憲政の命で信州まで侵攻し小田井原の戦いでは、為広の代わりに倉賀野衆を率い武田信玄と交戦し敗退しています。

小田井原の戦いは、志賀城(長野県佐久市)の城主笠原新三郎清繁が武田信玄の佐久侵攻の最後の砦として激しく抵抗、上杉憲政に救援を乞います。憲政は笠原家と縁戚関係がある高田遠春父子を派遣し籠城戦に持ち込むも武田軍は大井三河守を先鋒として志賀城を取り囲みました。さらに、憲政は倉賀野為広に命じて兵3千の派兵を決定、金井秀景は為広の名代としてその指揮官となりました。信玄はその動きを察すると板垣信方、甘利虎泰を呼び寄せ、小田井原で両軍が激突しました。結果的に武田軍の大勝となり、討ち取られた数多くの首は志賀城の前にさらさせ、それを見た城兵は戦意を喪失し開城に至ったとされます。

為広が死去すると永禄2年(1559)に秀景は倉賀野家から離反し武田家に下り、為広の跡を継いだ倉賀野尚行も武田家や北条家の侵攻にさらされ弱体化し、永禄8年(1565)には武田信玄により倉賀野城は落城、尚行は上杉謙信を頼り越後に落ち延びています(後裔は米沢藩士)。永禄元年(1558)頃に倉賀野氏が従っていた上杉憲政が越後に逃れた事で、上州の国人領主達は越後上杉家、甲斐武田家、小田原北条家の何れに属するのかの選択に追われ、為広の死去により倉賀野家中が分裂したと思われます。金井秀景との関係性は判りませんが、後の中山道の宿場町である板鼻宿で牛馬宿を営んだ金井家や、坂本宿本陣の金井家、松井田宿本陣の金井家、安中宿脇本陣の金井家などが存在している事から、武田家の上州侵攻の脅威に金井家一族が直接晒された為、逸早く武田家に転じたのかも知れません。

永禄13年(1570)、金井秀景は旧主家の居城である倉賀野城に入り名も金井から倉賀野に改称、当地方の武田方の有力家臣として重要視されます。天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、織田信長の家臣で上野国に派遣された滝川一益に従い、不慣れな上野国の統治や周辺の国人領主などの外交に尽力した事で重用され篤く信頼されたようです。同年、本能寺の変で信長が自刃すると、北条家が上野国に侵攻、「神流川の戦い」で一益が敗退すると秀景は殿として国境付近まで警固し一益を無事本領まで帰還させています。その後は北条方に与し、天正18年(1590)の小田原の役では小田原城(神奈川県小田原市)に籠城、小田原城が落城の数日後に死去しています。永泉寺(高崎市)は金井秀景の菩提寺とされ境内には秀景の墓碑が建立されています。

居城である倉賀野城も廃城となりましたが、城下町だった町は江戸時代に入り中山道の宿場町、倉賀野宿として再整備され、支配層である本陣には勅使河原氏、脇本陣には須賀氏と何れも倉賀野十六騎の一族が引き続き倉賀野宿の指導者となっています。因みに須賀氏の菩提寺は倉賀野宿に境内を構える九品寺(群馬県高崎市)で須賀佐渡守の墓碑が建立されているそうです。又、旧城下には倉賀野城の鬼門鎮護として秀景によって創建された養報寺や、永禄年間(1558〜1569年)に諏訪大社(信濃国一之宮:長野県)から祭神を勧請し創建した諏訪神社など縁の社寺が点在しています。

倉賀野宿:写真
金井秀景と縁がる倉賀野宿 金井秀景と縁がる倉賀野宿 金井秀景と縁がる倉賀野宿 金井秀景と縁がる倉賀野宿
永泉寺:写真
金井秀景と縁がる永泉寺 金井秀景と縁がる永泉寺 金井秀景と縁がる永泉寺 金井秀景と縁がる永泉寺

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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