真田道: 白井屋

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真田道・白井屋
【 白井屋 】中之条町は江戸時代初期に承応元年(1652)、沼田領主(当時は本藩である松代藩から半独立したものの、幕府からは正式の藩とは認めてもらっていなかった)真田信政(初代松代藩主真田信之の2男)により現在に町割りされました。元々は真田家の拠点である上田城(長野県上田市)と沼田城群馬県沼田市)を結ぶ真田道の宿場町的な存在で、江戸時代に入り三国街道が整備されると、その脇往還の分岐点となり発展しました。明治時代になると中之条町の中心地に選定され、多くの公共施設(町役場庁舎・税務署・中之条区裁判所、登記所)が整備されると、宿泊施設が足りなくなり、明治25年(1892)頃に旅館「白井屋」が創業しました。太平洋戦争が終わると宿泊者が少なくなり、その後は衣料品店や薬局などで利用されましたが昭和54年(1979)に店舗としては使われなくなっています。現在の白井屋は創建当時のもので、木造2階建、切妻、鉄板葺、平入、外壁は下見板張り、2階外壁は1階から構造材を持ち出しそれで支える出桁造り、桁行き7間、梁間4間、建築面積111u、1階部が店舗と居宅部分で2階には客室(6畳)が5室配されていました。白井屋は明治時代に建てられた旅館建築(町家建築)の遺構として貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。

【 真田道 】−真田道は戦国時代に真田家の拠点だった上田城と沼田城を結ぶ為に整備された街道で、中間にはやはり真田家の軍事要塞である岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)や、名胡桃城(群馬県利根郡みなかみ町下津)、発祥地である真田の庄(長野県上田市真田町)がありました。岩櫃城や沼田城は度々攻防戦戦が繰り広げられている事から真田家はこの街道を利用して軍勢を率いて軍事行動を行ったと思われます。江戸時代に入ると、三国街道の脇往還としての役割と(三国街道が川の増水などで通行止めになった際はう回路として利用された)、草津道(信州街道:高崎城下と信州の須坂城下を結ぶ街道で、中山道よりも利便性がよく物資の輸送に利用された。途中から分岐して草津温泉に至った為、多くの人が往来した。)を結ぶ間道の役割を持った為、特に江戸時代中期以降に庶民の行動範囲が広がると草津温泉の湯治者が街道を利用しました。

群馬県の町屋建築
須賀家住宅白井屋(真田道)
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