日光例幣使街道(群馬県)概要: 日光例幣使街道は江戸幕府初代将軍徳川家康の霊廟を久能山(静岡県静岡市)から日光東照宮(栃木県日光市山内)へ移された事を受け、正保3年(1646)以降、朝廷から日光東照宮(栃木県日光市:世界遺産)に勅使を遣わし幣帛を奉納する行事が毎年行われる事になった為に開削された街道です。
これは初代江戸幕府将軍である徳川家康に頭を下げる事に等しい行為な為、徳川家の権威付が最大の理由とされ、朝廷からすると最大の屈辱とも言えます。ただし、勅使にとっては、かなりの副収入があり、禁中並公家諸法度により自由が制限された身としては見聞を広める数少ない機会でもあり、好意的に捉えていた公家も多かったとされます。
勅使は東照宮の例祭である旧暦4月16日にあわせて京都を4月1日に出立し15日間の行程で日光に到着。持参した金の幣束を奉納し返りは日光街道から江戸に出て東海道を通り京都に戻るといった一連の行為を正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで221年間続けられ1回の中止もなく継続されました。
日光例幣使街道は一般的に中山道の倉賀野宿(群馬県高崎市)からから分岐して楡木宿(栃木県鹿沼市楡木町)で、奥州街道(日光街道)の小山宿(栃木県小山市)から分岐した日光西街道(壬生通り)と合流して鉢石宿(栃木県日光市)に至るまでの13宿で構成され、特に今市宿(栃木県日光市)では会津西街道や日光街道が合流する交通の要衝として大きく賑いました。
徳川家康の命日が4月17日である事から、日光東照宮では4月15・16・17日の3日間が例大祭で、勅使はこの例大祭の際に幣帛を奉納します。京都から日光例幣使街道を使いに日光東照宮までは概ね17日間の行程が必要で、逆算して京都を出立し日光東照宮を目指しました。
例幣使は明治維新直前の慶応3年(1867)まで221回、中止や棄権せず毎年かかさず行われました。現在でも日光周辺には杉並木が残っていて国指定特別史跡、国指定特別天然記念物に指定され、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されています。
日光例幣使街道(群馬県)の宿場町
【玉村宿】−玉村宿(群馬県玉村町)は江戸時代初期に新田開発によって開村した村が始まりで日光例幣使街道が開削されると、古三国街道(沼田街道:前橋城下で沼田街道西通りと分岐)と交差する交通の要衝として発展しました。本陣は木島家が担い、天保14年(1843)に例幣使参議有長が詠った「みちくらの使にかさねて むかひける帰るさに 玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに」の歌碑だけが残されています。元禄年間(1688〜1704年)には前橋藩5代藩主酒井忠挙が馬市を開設しています。鎮守である玉村八幡宮は鎌倉時代初期に源頼朝が鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)から御霊を勧請して創建されたと伝わる古社で、本殿は国指定重要文化財に指定されています。
【五料宿】−五料宿(群馬県玉村町)は利根川に接し、江戸時代は利根川が前橋藩(群馬県前橋市)の藩境だった事から日光例幣使街道唯一の関所(五料関所)が設けられました。宿場町だけでなく、利根川舟運の拠点、対岸への渡船場として重要視されました。現在は往時の町並みは失われつつありますが、五料関所の礎石跡や利根川舟運で富を得た舟問屋高橋清兵衛家の屋敷跡などが残されています。
【柴宿】−柴宿(群馬県伊勢崎市)は五料宿から見ると利根川の対岸に位置し、比較的小規模だったものの、加宿と呼ばれる宿場機能を補佐した中町と堀口が略一体となっていた為、全体的には大きな宿場町でした。柴宿は享保14年(1729)に現在地に宿場町ごと移転した為、自然発生的村に街道を引き込んだ、他の宿場町とは異なり、最初から計画され町割が行われた特徴を持っています。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒の規模で、本陣は代々関根甚左衛門家が歴任し、現在でも表門と塀が残され伊勢崎市指定史跡に指定されています。宿場内には雷電神社や柴町八幡神社(社殿:伊勢崎市指定文化財)、泉龍寺(白崖宝生禅師画像:群馬県指定文化財)などの史跡が点在しています。
【木崎宿】−木崎宿(群馬県太田市)は銅街道(木崎宿〜足尾銅山)が分岐する交通の要衝として発展した町で、最盛期には旅籠60軒、飯盛り女が200人以上いたとされ、日光例幣使街道の宿場町としては最大級の規模となりました。宿場内にある長命寺境内に建立された通称「色地蔵(太田市指定文化財)」は、飯盛り女の信仰の対象になった石仏で現在でも篤く護られ当時の繁栄を現在に伝えています。鎮守である貴先神社は祭神である須勢理比売命が大国主命の后(きさき)だった事に起因して社号になったとされ、それが転じて現在の地名の由来になったと伝えられています。
【太田宿】−太田の地より北側に位置する金山城(国指定史跡)は戦国時代当地を支配した由良氏の居城で領地の中心施設でしたが、天正18年(1590)に由良氏が移封になると金山城は廃城となります。館林城の城主となった榊原康政は橋本家を本陣と定め、寛永20年(1643)に太田宿が整備され、正保元年(1645)に日光例幣使街道が開削されると宿駅に選定されています。太田宿は規制も厳しく遊女が許されなかった事から大きな発展は見られませんでした。明治時代以降は当地域の中心として開発された為、旧街道もその都度整備され現在は当時の雰囲気が留めていません。中世は源氏の一族である新田家の本拠にも近く、新田家関係の史跡が点在しています。
日光例幣使街道のルート
倉賀野宿−玉村宿−五料宿−柴宿−境宿−木崎宿−太田宿−八木宿−梁田宿− 天明宿−犬伏宿−富田宿−栃木宿−合戦場宿−金崎宿−楡木宿−奈佐原宿− 鹿沼宿−文挟宿−板橋宿−今市宿
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