【 歴史・由来・概要 】 元々は平安時代末期の治承年間(1177〜1181年)に秩父三郎高俊によって築かれた倉賀野城の城下町として成立した町で、交通の要衝と烏川舟運により発展していました。天正18年(1590)の小田原の役の際、当時の倉賀野城主金井淡路守(倉賀野秀景)が小田原北条氏に与した為、豊臣秀吉方に敗れその後死去(秀景は小田原城に立て籠もり、開城後22日後に死亡している為、死因は不詳)、倉賀野城も廃城となりました。
江戸時代に入り中山道が本格的に開削されると宿場町として整備されると、日光例幣使街道との分岐点、烏川を利用した利根川舟運の最大の拠点として重要視されました。
【 ポイント 】現在では余り感じませんが、当時は街道と舟運が同時に利用出来る要衝の地でした。戦国時代には当地を抑える為、大名達が攻防戦を繰り広げました。倉賀野城が廃城になると平城の悲しさか、多くが住宅街に没し殆ど遺構を見つける事が出来ません。ただし、町割りなどをよく見ると、当時の縄張りに沿って道路や敷地割りが行われているところもある為、探して見るのも面白いかも知れません。
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倉賀野宿(高崎市)は江戸から12番目、新町宿と高崎宿(高崎城の城下町)の間に設けれた宿場町で旅籠、宿屋関係は60余棟あったとされ飯盛女も多数働いていたそうです。特に高崎城の城下町は高崎藩の家臣(武士)が多数住まう武家町でもあった為、風紀も厳しく取り締まった事で、飯盛女は隣の宿場町である倉賀野宿に集中したとされます。
烏川を利用した利根川舟運の最大の拠点である倉賀野河岸(湊)があった事から物資の集積場としても発展し、倉賀野からは米・煙草・雑穀・絹・綿などが江戸に運ばれ、江戸からは塩・藍・御茶・糠・太平洋で水揚げされた海産物・陶器・小間物などが荷揚げされ内陸部に運ばれました。最盛期に舟問屋74軒、舟運船150余艘が活動していたとされ明治17年(1884)に高崎線が開通するまで繁栄が続きました。
倉賀野宿の規模は11町38間(約1.2キロ)、上町、中町、下町の3町で構成され、天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒、家屋297軒、人口2031人と記録されています。中町に公的な施設が集中して設けられていた事から中心的な役割を持ち、下町の閻魔堂(阿弥陀堂)で中山道と日光例幣使街道が分岐していました。
閻魔堂(阿弥陀堂)の境内には文化11年(1814)に高砂屋文之助が建立した「追分・常夜燈」と「従是 右江戸道 左日光道」と彫り込まれた道標、庚申塔、馬頭観音などの石碑、石仏が建立されています。
【 ポイント 】本陣は勅使河原八左衛門家が担っていますが、中世当地を治めた倉賀野氏の家臣である倉賀野十六騎の中に勅使河原備前守の名前が見られる事から、当家は後裔か一族と思われます。埼玉県児玉郡上里町の大字に勅使河原の地名がある事から、そこが本貫なのでしょう。南北朝時代に新田義貞に従った勅使河原直重が著名ですが、その後は同じ武蔵七党の倉賀野氏に従い十六騎の筆頭を勤めています。倉賀野氏の没落後の経緯は判りませんが、当地に土着し引き続き支配層として本陣職を担ったようで、皇女和宮が江戸将軍家に降嫁で倉賀野宿を利用した際には昼食を採っています。現在の遺構はありませんが敷地がそのままスーパーとなっている為、当時の規模を知る事が出来ます。
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元々、城下町だった事から歴史的な遺産も多く金井家の菩提である永泉寺や当地域の総鎮守、飯盛女が寄進した石灯籠がある倉賀野神社、古い板碑が建立されている安楽寺などの見所があります。
現在は宿場内の中山道がそのまま主要道となった為、家屋の建替えが進み往時の雰囲気が失われつつあり連続した古い町並みはあまり見られませんが、明治23年(1890)に再建された脇本陣だった須賀家住宅など時折見せる町屋(商家建築)が当時の繁栄を見る事が出来ます。
鎮守である倉賀野神社は第10代崇神天皇の48年に皇子豊城入彦命によって創建された古社で、記録的には平安時代に編纂された上野国神名帳に正五位上大国魂大明神として記載され、倉賀野の産土神、総鎮守として歴代領主から崇敬庇護されてきました。
奉納物では宿場町の関係者からのものが多く中でも石玉垣には飯盛女として働いていた女性の名前が刻まれており当時の繁栄が窺えます。その他には延徳3年(1491)に領主倉賀野五郎行信が開基として開かれた九品寺、金井淡路守秀景の菩提寺である永泉寺、異形板碑が安置されてる安楽寺などが点在しています。
高崎市倉賀野町:上空画像
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