太田宿

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太田宿:略データ
・場 所・群馬県太田市
・概 要・太田宿の集落的な発生起源は判りませんが、平安時代後期には「大田郷」と呼ばれていました。

正木文書によると、嘉応2年当時の大田郷は田3町7反、畠4反10代、在家3宇だったと記されています。

文明元年に新田一族である岩松家純が金山城を築くと、根古屋(城下町)の一つとして整備され物資の集積地にもなったようで、長楽寺永禄日記には永禄8年に太田の市で買い物をした事が記されています。

天正8年には甲斐の武田勝頼が新田や館林地域に侵攻し、その兵火により太田郷も大きな被害を受けています。

天正18年に発生した小田原の役で領主だった由良氏は北条氏に加担した事から改易は免れたものの、大幅に石高を減らし当地を去り、代わって徳川家康の関東移封に従った榊原康政が館林城に入り、太田郷もその支配下に入っています。その際、橋本家が本陣に指名された事から宿駅的な機能があった可能性があります。

橋本家は南北朝時代に南朝方の有力武将だった楠木正成の叔父に当たる楠木正玄の後裔と伝わる氏族で、代々橋本金左衛門を継承し太田宿の本陣を歴任しています。

寛永20年には宿場町として整備され、正保2年に日光例幣使街道の宿駅に指定されています。

天保14年に編纂された日光例幣使道宿村大概帳によると太田宿には本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場2軒、宿建人馬25人、25疋、町並みは東西9町10間だったと記されています。

江戸時代末期には天狗党が太田宿で宿泊し、その後、幕府から命じられ追討軍も宿所として利用しています。

戊辰戦争の際には、旧幕府軍本隊が太田宿を利用しているとの一報を受けた新政府軍が急襲しましたが、その姿が無く、新たに梁田宿に居るとの情報を得て、当地から出陣し梁田戦争が勃発しています。

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