・玉川の地は古くから開けていた地域の一つとされ、古墳時代には確認されているだけでも、100基以上の古墳が築造され、人々の営みと共に、有力が豪族やその一族が存在していた事が窺えます。
平安時代に入ると伊勢神宮の荘園となり玉村御厨として整備されました。
中世は国人領主や土豪達が割拠し戦が続いた為、荒廃しましたが天正18年に徳川家康の関東移封に伴い、玉村領は徳川領に属しました。
玉村集落は慶長10年に徳川家康の家臣で、当地の開発を命じられた伊奈備前守忠次が天狗岩用水から引き込んだ滝川用水を開削し近隣から住民を集めて玉村集落を開村しています。
その際、忠次は玉村集落の産土神、鎮守といして建久6年に源頼朝の命により玉村町角渕に開創された角渕八幡宮(玉村八幡宮)を上新田と下新田の中間に遷座し整備しています。
正保3年に例幣使が毎年日光東照宮に参詣する事が決まり日光例幣使街道が開削されると宿場町に指定されています。
天保14年に編纂された日光例幣使道宿村大概帳によると本陣1軒、合計36軒、家屋270軒、人口1032人、町並みは東西20町19間余りと記されています。
本陣は木島家が歴任し、上新田、下新田に1軒ずつあった問屋場は10日間毎に交代してその役目を担っています。
木島家には毎年例幣使が宿所として利用され、文久4年には例幣使参議として木島家に宿泊した綾小路有長の歌碑が屋敷内に建立されています。
玉村宿は佐渡奉行街道が交差する交通の要衝で、飯盛り女も認められていた事から特に江戸時代後期以降は賑わいを見せ、幕末には旅籠は62軒に増加しその内飯盛り女を抱えている旅籠は36軒に上がったとされます。
又、佐渡奉行街道の宿場町でもあった事から罪人が佐渡島に島送りの刑の際には玉村宿に設けられた10数軒の囚人宿で宿泊しています。
慶応4年に大規模な火災により宿場の多くの建物は焼失し、その後の道路の拡幅工事や、伝統的な町屋建築の多くが建て替えられた為、懐かしい町並みは失われつつあります。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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