館林城

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概要・歴史・観光・見所
館林城(尾曳城)概要: 館林城の築城には諸説あり享禄4年(1531)に赤井照光が築いたとも、弘治2年(1556)に赤井照康築いたとも、古文書により文明3年(1471)に上杉軍が立林城(館林城)を攻略したとの記述があるので、それ以前から築城されていたとも云われています(ただし、攻略した城は大袋城との説もある)。又、伝説によると「天文元年(1532)、当時の大袋城主赤井照光が子供達に虐められた子狐を助けると一人の老人が現れ新たに城を築く事を強くすすめます。翌日一匹の老狐が現れ尾を引きながら城の縄張りをして城の守護神になることを約束して姿を消したそうです。照光は神意と悟り、新城を築くと尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て鬼門(北東)の方角に境内(稲荷郭)を設け尾曳稲荷神社を勧請し篤く信仰しました。」と伝えられています。永禄5年(1562)に上杉謙信(春日山城の城主、関東管領。)が侵攻し館林城が落城すると赤井氏は武蔵忍城(埼玉県行田市)に退きますが、天正6年(1578)に謙信が死去すると越後で跡継ぎ争い(御館の乱)が激化、上杉景勝が上野国を譲渡する事を条件に武田勝頼と講和した事で館林城も武田方が支配します。

しかし、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍が武田領に侵攻し、当主である武田勝頼が自刃、武田家が滅びた為、間隙を突いて北条家(小田原城の城主)が上州に侵攻し館林城を奪取しています。天正18年(1590)の小田原の役では北条方の南条因幡守が守っていましたが豊臣方の石田三成、大谷吉継に攻められ開城、北条家が滅ぶと徳川家康が関東に入封し館林城には重臣である榊原康政(徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑)を10万石で配しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、康政は徳川秀忠に従軍にし中山道を進軍、真田家が守る上田城(長野県上田市)攻めと悪天候により本戦には間に合わず、加増されなかったものの、引き続き館林領を任されています。榊原家は3代に渡り館林城の城主を歴任し、その間に城郭が大きく拡張され城下町、領内の整備も行われました。

寛永20年(1643)、榊原忠次が白河藩(現在の福島県白河市)14万石で移封になると館林藩は廃藩、一時天領となりましたが、寛文元年(1661)に徳川綱吉(3代将軍徳川家光の4男、後の5代将軍)が25万石で入封すると再び立藩、館林城は藩庁、藩主居館としてさらに改修が加えられ本丸には3層の天守閣が聳え、複数の2層櫓も設けられ、徳川家一族の城にふさわしい城郭になったとされます。天和3年(1683)、2代藩主となった徳川徳松が5歳で死去すると館林藩は廃藩となり、宝永4年(1707)に松平清武が2万4千石で入封し再立藩した際には石高に適するように館林城の規模も縮小されました。その後は太田家や松平(越智)家、井上家、秋元家など5万石から6万石の有力譜代大名が藩主を歴任しました。館林城は明治維新後、廃城となり多くの建造物が破棄され、さらに明治7年(1874)火災で焼失しました。

城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で当時では珍しい総構えの城郭で広い城域に城下町を取り込み外側を高い土塁と堀で囲んでいたようです。現在でも市街地にある平城にしては土塁などの遺構が比較的に残り近年土橋門や土塀、井戸などが復元され館林市指定史跡に指定されています。

館林城(尾曳城):写真

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