玉村八幡宮概要: 玉村八幡宮は群馬県佐波郡玉村町大字下新田に鎮座している神社です。玉村八幡宮の創建は鎌倉時代初期の建久6年(1195)、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。
伝承によると頼朝が新田館から三原へ赴く途中に当地を訪れた際、鎌倉の由比ガ浜に似ていた事から霊地と悟り安達盛長に命じて社殿が造営されたと伝えられています。玉村八幡宮を創建した安達藤九郎盛長は出生は不詳なものの、源頼朝が伊豆に配流されていた頃から側近として従い、頼朝の乳母、比企尼の長女である丹後内侍を妻として迎えている事からも篤く遇されていた事が窺えます。
安達盛長は源平の合戦の際には頼朝の使者として各地の豪族に協力を要請し、常に頼朝と行動を共にしています。元暦元年(1184)に上野国の奉行人に就任すると上野国内の行政や寺社の管領の任を行い、当時の守護は比企能員であったものの次第に実権は安達家に移り、跡を継いだ子供である安達景盛が上野国奉行と守護職を兼任しています。
文治5年(1189)の奥州合戦に従軍し功を挙げると陸奥国安達郡が与えられ地名に因み安達姓に改姓したとされ、正治元年(1199)に頼朝が死去すると出家し蓮西と名乗るものの、2代将軍に就任した源頼家の宿老として引き続き幕政を支えています。
玉村八幡宮はその後荒廃しましたが応永18年(1411)に足利満兼(当時の鎌倉公方)が再建し、永正4年(1507)には当時の白井城(群馬県渋川市白井宿)の城主白井長尾氏も社殿の再建が行われています。当初は角渕にありましたが慶長15年(1610)、代官堀の開削が竣工後に現在地に遷座し本殿も移築されています。
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江戸時代に入ると前橋藩(群馬県前橋市:本城−前橋城)の藩主酒井氏に崇敬され寛永15年(1638)酒井雅楽頭忠清によって社殿が改修、寛文7年(1667)には同じく酒井雅楽頭忠清によって社殿の改修されています。
又、幕府からも庇護され慶安2年(1649)に三代将軍徳川家光より朱印状30石を賜ると明治維新まで歴代将軍から社領を安堵され酒井氏移封後の社殿の管理や例祭の執行にあてられました。古くから神仏混合の形態を維持し別当には隣接する神楽寺があたり、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立し、明治6年(1873)に村社、大正14年(1925)に県社に列し、境内には神仏混合の名残ととも言える随神門が現存しています。
現在の玉村八幡宮本殿は永正4年(1507)に再建され、慶長15年(1610)に現在地へ移築されたと伝わる建物で、三間社流造、こけら葺き、全体が極彩色で彩られ蟇股や海老虹梁などに特徴があるとされ大変貴重な事から昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定されています。
玉村八幡宮拝殿は江戸時代中期の永享4年(1747)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、平入、桁行3間(背面5間)、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り構造部朱塗り。幣殿は拝殿と同時期に造営されたもので、両下造、妻入、銅板葺き、間口1間。
玉村八幡宮随身門(仁王門)は江戸時代末期の慶応元年(1865)に造営されたもので、八脚楼門形式、入母屋、瓦葺き、三間一戸、上層部左右花頭窓、高欄付き、下層部左右随身安置。玉村八幡宮神楽殿は江戸時代後期に造営されたもので、入母屋、鉄板葺き、妻入り、3方吹き放し、高欄腰壁朱塗り。玉村八幡宮の建造物(拝殿、幣殿、隨神門、神楽殿)は旧日光例幣使道の旧玉村宿の景観上優れてる事から平成28年(2016)に玉村町指定重要文化財に指定されています。
又、境内には一桂庵勇水が文化2年(1805)に建立した「やすやすと出てゝいさよふ月の雲」の芭蕉句碑があります。祭神:誉田別命、気長足比賣命、比当ス。配祀:素盞嗚命、健御名方命、大鷦鷯命、熊野久須毘命、大己貴命、倉稲魂命、火産霊命、大日霊命、豊受姫命、菅原道眞、伊弉諾命、伊弉册命、櫛御気野命、瓊瓊杵命。
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