安中藩概要: 井伊直政の嫡子井伊直継(直勝)は彦根藩(滋賀県彦根市)井伊家を継いでいましたが表向きは病弱だったこともあり、元和元年(1615)大坂の陣で功績を残した弟の直孝が本家を継ぐ事になり、直継は安中3万石を与えられ安中藩を立藩しています。安中の地は天正18年(1590)に直政が箕輪城12万石で配された際の領内の一部だった地域で、威徳山吉祥院北野寺は直孝が幼少時に預けられ養育された寺院として知られています。直継(直勝)は安中城や城下町、領内整備に尽力し、寛永9年(1632)に隠居、跡を継いだ直好は正保2年(1645)に西尾藩(愛知県西尾市)に移封となっています。直継(直勝)系の井伊家はその後、掛川藩(静岡県掛川市)に移封となり、さらに宝永2年(1705)に与板藩(新潟県長岡市与板町)の藩主となって明治維新を迎えています。
【 板倉家の治世 】−井伊家が移封になった後の安中藩は水野家や内藤家など2〜3代で藩主が交代し寛永2年(1749)に板倉勝清が2万石で入封すると以後6代に渡り板倉家が藩主を勤めています。板倉家は学識が高い人物が多く、板倉勝明が藩主の時には藩士の鍛錬の一環として安中城から碓氷峠の熊野権現まで徒競走させ日本でのマラソンの発祥の地とされます。安中藩は、領内にある中山道の碓氷関所(群馬県指定史跡)や三国街道の杢ヶ橋関所(群馬県指定史跡)の幕府からも重要視される関所の管理を任されており、幕末には中山道を下向する和宮の守備を務めています。戊辰戦争の際には新政府軍に与し、相楽総三率いる赤報隊の鎮圧、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗上野介の捕縛、上州諸藩と共に三国峠に出兵し会津藩と交戦しています。三国峠直下にある永井宿(群馬県みなかみ町)には七日市藩と共に、兵糧米282俵を預けた証文が残され貴重な資料となっています。その後も沼田藩を支援し、会津領に繋がる戸倉口に出兵しています。明治4年(1871)の廃藩置県により安中藩は廃藩となっています。
【 安中藩とマラソン(安政遠足) 】−案内板によると「 安中藩主板倉勝明は、藩士の心身を鍛えるため、安政2年(1855年)「遠足」を実施しました。50歳以下の家臣は、明け六つ(午前6時頃)の太鼓を合図に安中城を出発し、中山道を碓氷峠の熊野権現まで7里余り(約29キロメートル)を走りました。これを「安政遠足」といい、日本で最初のマラソンといわれています。」とあります。現在、「安政遠足」関係で残されている古文書は「安中御城内御諸士御遠足着帳」、「御領主様峠迄御遠馬御休御用諸事留」、「案詞壱番 御用部屋覚」の3点で、外国船が多数出没するようになった時代に国防や領内防衛の基本となる体幹強化が主なる目的だったと思われます。当時の安中藩の藩主板倉勝明は自ら碓氷峠まで下見を行うなど積極的に関与し、熊野権現(現在の熊野神社)の神主である曽根氏や途中にある碓氷関所にも事前に通達していた事が判ります。「安政遠足」は安政2年(1855)5月19日から6月29日まで行われ、一度に複数人が走り、第1班から第16班に分けられ実施されました。安中藩の家臣で完走したものは全部で96人で、その内2人は2度完走し、身分の高い家臣は随伴者が複数いた例や、到着した時間が操作された形跡、わざと同着した例などが記録によって推察されるそうです。到着には凡そ3〜4時間程かかったようで、熊野権現には班毎に初穂料が奉納され、代わりに餅や切り干し大根、キュウリ、御茶などの昼食が与えられ、小休止した後に安中城に帰還したそうです(往復約58キロメートル)。
【 城下町 】−安中城の城下町は中山道の宿場町(安中宿)でもありましたが、江戸時代後期の天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると、本陣1軒(須藤家)、脇本陣2軒(須田家・金井家)、旅籠17軒と、城下町という消費地だった割には大きな発展は見られなかったようです。宿場町の規模は群馬県内に設置されていた中山道の宿駅7か所の内で最小、幕府に定められた人足50人・馬50頭を用意する事も、難しかったとされます。旧城下町には旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家住宅)と旧安中藩武家長屋の武家屋敷の遺構や、井伊家縁の大泉寺、新島襄旧宅などの史跡が点在しています。
安中藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 井伊直勝 | 1615〜1632 | 3万石 | |
2代 | 井伊直好 | 1632〜1645 | 3万石 | |
初代 | 水野元綱 | 1648〜1664 | 2万石 | |
2代 | 水野元知 | 1664〜1667 | 2万石 | |
初代 | 堀田正俊 | 1667〜1681 | 4万石 | |
初代 | 板倉重形 | 1681〜1684 | 1.5万石 | |
2代 | 板倉重同 | 1686〜1702 | 1.5万石 | |
初代 | 内藤政森 | 1702〜1733 | 2万石 | |
2代 | 内藤政里 | 1733〜1746 | 2万石 | |
3代 | 内藤政苗 | 1746〜1749 | 2万石 | |
初代 | 板倉勝清 | 1749〜1780 | 3万石 | |
2代 | 板倉勝暁 | 1780〜1792 | 3万石 | |
3代 | 板倉勝意 | 1792〜1805 | 3万石 | |
4代 | 板倉勝尚 | 1805〜1820 | 3万石 | |
5代 | 板倉勝明 | 1820〜1857 | 3万石 | |
6代 | 板倉勝殷 | 1857〜1871 | 3万石 | |
【 安中宿本陣:須藤家 】−安中宿の本陣職と問屋職を歴任した須藤家は、戦国時代は小田原北条家に従う武士の家系でしたが、天正18年(1590)の小田原合戦で北条家が滅びると帰農し、江戸時代に安中宿が開宿すると本陣職を就任しています。安中市間仁田にある天王山城の城主とされる須藤安房守は城の規模からも一定以上の勢力があったと推定され、戦国時代に武田信玄の上州侵攻により武田家に仕える事になり、信玄が永禄10年(1567)に生島足島神社(長野県上田市)に奉納した起請文には安中衆として須藤縫殿助久守の名が連ねています。その後、武田家の滅亡、本能寺の変、天正壬午の乱を経て、小田原北条氏に仕えるようになり、北条氏滅亡後、帰農し豊臣秀吉から家名存続を許されたと思われます。安中宿の町年寄役を歴任した松本家も須藤家の一族とされる事から、中世以来の領主系一族が近世でも引き続き支配層として大きな影響力がありました。伊能忠敬の第7次測量では文化6年9月12日(1809年10月20日) に安中宿を訪れ須藤内蔵之助宅に宿泊、安中藩馳走役人馬割掃除方同心である谷奥太と、同じく安中藩馳走役人馬割掃除方同心の小板橋清吉が出迎えています。又、坂本宿から熊谷宿までの10宿の交通関係の取り締まり役でもあり大きな影響力があったと思われます。現在、本陣の建物として遺構はありませんが須藤家に伝わる多くの古文書が残されており、当時の中山道の交通行政が判る貴重な資料である事から、名称「安中宿本陣古文書」として安中市指定文化財に指定されています(上記の資料以外にも豊臣秀吉が天正18年:1590年に発布した禁制など23点は移転先の横浜にある横浜開港資料館に「須藤喜久美家文書」として寄託されています)。
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