高崎市吉井町: 辛科神社

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概要・歴史・観光・見所
辛科神社(高崎市吉井町)概要: 辛科神社は群馬県高崎市吉井町神保に鎮座している神社です。辛科神社の創建は大宝年間(701〜703年)に新羅系渡来人によって勧請されたのが始まりと伝えられています。境内周辺には小規模の円墳群があり古い地名が韓科郷や甘楽(韓・伽羅)郡など朝鮮半島を彷彿させることからも当時の渡来人達の聖域となっていたと思われ、太平神護2年(766)には上野国在住の新羅人子午足等193人が吉井連の姓が与えられた事が「続日本紀」に記載されている事から、引き続き朝鮮半島からの帰化人が数多く住んでいた地域だった事が窺えます。古代の石碑である「多胡碑」には和銅4年(711)に多胡郡が成立した経緯が刻まれおり、辛科神社は和銅年間(708〜715年)頃には多胡郡の総鎮守社として認識されていたようです。平安時代後期に編纂され上野国(現在の群馬県)の著名な神社を列記した上野国神名帳では従二位の位が賜っていたことが記され、南北朝時代中期に安居院により編集された「神道集」では多胡郡で鎮座していた25社の中で筆頭の格式を得ていた事から長く総鎮守として信仰されていました。

【 辛科神社と神保氏 】−歴代領主や為政者からも崇敬庇護され鎌倉時代初期の建久8年(1197)には源頼朝が懸仏(銅板製)を寄進し、中世は多胡郡の地頭職を歴任した神保氏が大きく関わり、支配層から没落後も一族が現在に至るまで辛科神社の神官を担っています(辛科神社の境内周囲には土塁や空堀が見られる事から神保氏の居館跡(神保城・神保館)とされます)。神保氏についての詳細は不詳ですが、度々資料等に散見される氏族で、当地の神保氏が本流とするならば、室町時代中期以降は白井長尾氏に従い、武田信玄の上州侵攻で長尾氏の居城である箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)が落城後、武田家に従っています。永禄10年(1567)に武田信玄により奉納された「生島足島神社起請文」には西上州の諸将61名の中に長根衆として神保昌光も名を連ねています。その後、神保氏は武田家の滅亡や、本能寺の変、北条家の侵攻、小田原の役などで領主としての権益を失い、辛科神社の神職に専念するようになったと思われます(庶流としては、戦国時代に越中半国の守護代まで上り詰めた一派や、江戸幕府の旗本として名を残した一派もいます)。江戸時代に入ると辛科神社は幕府から庇護を受け、寛永13年(1636)には3代将軍徳川家光により社領900坪が安堵、寛文元年(1661)には当時の領主倉橋久盛によって社殿が再建されています。古くから神仏習合し常行院が別当寺院を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃され明治39年(T906)に郷社に列しています。

【 辛科神社の社殿 】−現在の辛科神社本殿(一間社流造、銅板葺、木部朱塗り、壁面に精緻な彫刻)、拝殿(木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り)は江戸時代中期の寛文元年(1661)に再建された当時のもので、随神門(切妻、銅板葺、三間一戸、八脚門)は江戸時代後期の寛政9年(1791)に修復、神楽殿(木造平屋建て、切妻、桟瓦葺、高欄付き、外壁は3方が柱と建具で構成、木部朱塗り)は江戸時代末期の慶応2年(1866)の建立と多くの古建築物が軒を連ねます。古くから神仏習合し寺宝には源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)が建久8年(1197)に奉納したと伝わる懸仏などがあります。特殊神事として1月15日に御供米神事、7月31日にみそぎの神事があり辛科神社境内一帯が昭和46年(1971)に高崎市指定史跡に指定されています。祭神は速須佐之男命、配神は五十猛命。

辛科神社:写真

辛科神社
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