高崎市: 吉井陣屋

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概要・歴史・観光・見所
吉井陣屋(高崎市)概要: 江戸時代中期の宝暦2年(1752)に松平信有(紀州藩6代藩主徳川宗直の4男、鷹司松平家第5代当主)が現在地に陣屋を築き吉井藩1万石の藩庁とました。吉井藩の前身ともいうべき木部藩は宝永6年(1709)松平信清7千石が新たに上野国内の3千石が加増され立藩したのが始まりとされ、当初は中世に築かれた木部城跡に陣屋が設けられましたが、その後、吉井町矢田に移し、さらに宝暦2年(1752)に現在地に移りました。当地は中山道の脇往還である下仁田街道(上州姫街道)が通過していた事から交通に便が良く、行政、経済の面から有利と判断した為と思われ、陣屋町と同時に下仁田街道(姫街道)の宿場町的な役割を持ちました。

鷹司松平家は所謂「定府大名」だった為、通常は江戸城詰で領内には家臣である代官を派遣し領内の経営を行い藩主が領内に入り直接采配する事はありませんでした。その為、吉井陣屋の規模も藩主の居館が必要無い分比較的小規模で、東西約240m、南北約160mの敷地の周囲には堀と土塁を廻し、東南には虎口の表門(大手門)、東側には東門、裏門、内部には藩庁(主殿)の他、陣屋詰めの藩士の居宅である長屋、春日社、蔵、物置、的場、畑が設けられました。基本的に陣屋では戦闘行為は行われませんでしたが、江戸時代末期の慶応4年(1868)には領内で大規模一揆が頻発するようになり、城下でも打ち壊しが発生、陣屋を取り囲まれる事件となり、全ての要求を受けいれています。水戸浪士による天狗党が通過した際には、追討命令が下っていたものの戦闘行為を避ける為、黙認しこともあろうか吉井宿で宿泊を許しています。

明治4年(1871)の廃藩置県が発令されると吉井藩が廃藩となり、それに伴い吉井陣屋も廃城、屋敷内にあったほとんど施設が払い下げ、又は破棄され敷地は宅地化しましたが、陣屋の東南隅の土塁の一部が残されました。吉井陣屋があった当時はその土塁の上には松平家の氏神である春日社(吉井松平家の祖は京都鷹司家でその祖が藤原家、藤原家の氏神が春日大社)が鎮座していた事から大正6年(1911)に"吉井藩治碑"、大正10年(1921)には"皇太后、皇后陛下御駐賛遺跡記念碑"が建立され昭和52年(1977)に旧吉井町指定史跡に指定されています(春日社は明治時代末期に吉井八幡宮に合祀されています)。さらに、旧陣屋の屋敷内には施設だった武家長屋と思われる建物を現存し、確認は出来ませんでしたが古井戸も残っているそうです。又、陣屋の表門(切妻、桟瓦葺、桁行5.8m、梁間2.47m、高さ5.37m、鬼瓦に家紋の「丸に葉牡丹」、壁面部は真壁造り白漆喰仕上げ)が一端民間に払い下げられた後に町に寄贈、現在は町役場付近に移築保存され吉井陣屋の数少ない遺構として貴重な事から昭和48年(1973)旧吉井町(高崎市)指定重要文化財(建造物)に指定されています(未確認ながら、陣屋の主殿が払い下げの際、矢田代官屋敷に移築されているそうです)。

吉井陣屋:写真

吉井陣屋の遺構である表門
[ 付近地図: 群馬県高崎市 ]・[ 群馬県:城郭建築 ]
吉井陣屋内部に設けられていた武家長屋 吉井陣屋の跡地に残されている西南土塁 吉井陣屋に鎮座していた春日社の跡地 吉井陣屋の土塁上に建立されている石碑

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