赤堀城(伊勢崎市)概要: 赤堀城の築城は南北朝時代の観応から正平年間(1350〜1369年)に赤堀直秀が築いたのが始まりとされます。赤堀氏は藤原秀郷(平将門追討の戦功により上野、武蔵が与えられた。)の末裔とされ、当地に土着すると国人領主として赤掘城を居城として長く支配しますが、大きな勢力に成長出来ず、親綱の代で金山城(群馬県太田市)の城主由良氏の旗下に入ります。
当時、由良氏は春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信の配下だった為、天正6年(1578)に謙信が急死すると上杉家跡目争いである御館の乱(上杉景勝と上杉景虎による後継者争い)が勃発し、上杉家臣団が大混乱となり、由良氏も大きな影響がありました。
小田原城(神奈川県小田原市)の城主北条氏は上杉家臣団の混乱の間隙を突き上野国(現在の群馬県)に侵攻すると、赤堀氏は援軍が望めない上杉家や由良氏を見限り北条氏に赤堀城を明け渡したようで、その後、赤堀城には北条氏家臣の小菅摂津が城主として配されています。しかし、天正18年(1590)、小田原の役で主家である北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると赤堀城は廃城になっています。
赤堀城は粕川と鏑木川を外堀にした平城で東西約170m、南北約350m、本丸は約80m四方で空掘で周囲を固めていました。現在は大部分が畑地や宅地になっていますが郭の形状や土塁、空堀、の一部が明確に残り当時の様子を今に伝えています(城と関係があるのかはわかりませんが城内には五輪塔や石仏などが多数建立されています)。
赤堀城の城跡は中世の平城の遺構として貴重な事から平成16年(2004)に伊勢崎市指定史跡に指定されています。
赤堀城:上空画像
|