伊勢崎陣屋概要: 伊勢崎陣屋の前身と思われる赤石城の築城年は不詳ですが戦国時代に赤石左衛門尉によって築かれたとされます。しかし、永禄4年(1561)、由良成繁(金山城の城主)の侵攻により落城、以後、成繁の家臣である林高成が城代として赴任します。その後、小田原北条家の持城となり大和晴親の管理下に置かれたものの、天正18年(1590)、小田原の役で北条氏が滅ぶと徳川領となり本多広孝に与えられます。
慶長2年(1597)、稲垣長茂が伊勢崎領1万石が与えられ赤石城跡地を大改修し居城とするも元和2年(1616)に稲垣重綱が越後藤井藩(新潟県柏崎市)へ移封すると酒井忠世が入封し、元和3年(1617)に忠世が前橋藩に移封になると一時廃城となり陣屋門(伊勢崎市指定文化財)は同聚院へ移築されています。
その後、寛永14年(1637)酒井忠能が2.25万石で伊勢崎藩を立藩、寛文2年(1662)に忠能が3万石で信濃小諸(長野県小諸市)へ移封になると再び廃藩となります。天和元年(1681)、酒井忠挙が前橋藩の藩主に就任すると弟である酒井忠寛(酒井忠清の3男)に2万石を分知、改めて立藩し陣屋を設けます。
酒井家は有力譜代大名酒井家の分家筋で本家が前橋藩(本城:前橋城)、後に姫路藩(本城:姫路城)の藩主を務めると伊勢崎藩はその支藩的な立場となりました。
伊勢崎陣屋の城域は約400m四方あり広瀬川を天然の外堀とし本丸の外側を高い土塁で囲み、二の丸、乾崎曲輪を配しました。明治維新後に廃城となり城跡は本丸部分は小学校や図書館の敷地となり、その他は同聚院や宅地化し殆ど遺構は見られません。
又、廃城になった際、払い下げとなりその一部が旗本駒井家領の代官職を歴任した森村家が買い取り、御殿玄関と御殿書院がそのまま移築され、解体された木材は森村家住宅の主屋の建材として再利用されています。森村家住宅は伊勢崎市指定文化財に指定されています。
伊勢崎陣屋:上空画像
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