稲部市五郎種昌の碑(富岡市)概要: 稲部市五郎種昌は江戸時代後期に発生したシーボルト事件に連座し七日市藩に預けられた人物です。七日市藩は改めて牢屋を設けて収監させたものの、種昌の国内では最先端だった蘭学や西洋医学の知見を得る為、密かに藩医を派遣し七日市藩発展に大きな影響を与えました。種昌が獄中死すると、10代藩主前田利和は功績を偲び本来許されない寺院での手厚い埋葬を密かに行ったとされます。種昌と接見していたのは畑鉄鶏とされますが、同じく七日市藩の藩医を務めていた斎藤寿軒もその事情が伝わっていたようで、寿軒の2男である斎藤寿雄が昭和6年(1931)に「稲部市五郎種昌の碑」の建立の中心となりました。
案内板によると「 稲部市五郎種昌は現在の長崎県出身で、江戸時代後期、長崎出島でオランダ語の通訳をしていた。このころ日本地図の海外持ち出しは固く禁じられていた。これをオランダ商館医師(ドイツ人)が故国へ持ち帰ろうとして、文政11(1828)年世にいうシーボルト事件がおこった。これにかかわったとして50人もの人が捕たわれ、厳しい処分を受けた。市五郎種昌もその一人で、異郷の七日市藩に身を預けられ永牢を言い渡された。それから11年間牢内に閉じ込められ、天保11(1840)年8月22日、病のため牢死。明治元年に恩赦によってその罪は消えるが、知る人もなかった。この事件・人となり・実績を後世に伝えようと、元衆議院議員斎藤寿雄が北甘楽郡医師会に呼びかけ、牢跡にこの碑が建てられた。 富岡市教育委員会 」とあります。稲部市五郎種昌の碑は貴重な事から平成4年(1991)に富岡市指定史跡に指定されています。
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