本宿(下仁田姫街道)概要: 本宿(群馬県下仁田町)は初鳥屋宿と下仁田宿の間に位置し上州姫街道中、最も古い町並みを残している宿場町です。安土桃山時代の文禄2年(1593)には宿場西側外れに西牧関所(藤井関所:掲示板は当時のもの、手前の石は役人が取り調べの際に容疑者を座らせたもので「泣き石」と呼ばれていた。下仁田町指定史跡)が設置されるなど重要視されますが中山道のような五街道とは異なり関所には武士が勤めず村役人がその任にあたりました。
又、本宿は西牧関所だけでなく背後に峠を控えていた事もあり宿泊や休息に利用する人も多く、安政元年(1852)には旅籠、茶屋の数は9軒、馬の数は13頭、家屋は68軒あったそうです。本宿は正式な宿場町では無かった為、本陣は設けられず、当地の名主で実力者だった神戸家がそれに準じた役割を担ったようです。
古くから当地域の中心的な役割を持った集落で、多くの物資が集められ月に9度市が立つ九斎市が開かれ多くの人々が集まりました。特に良質な麻の産地で宿場内で取り扱っていた事から遠く関西からも商人が訪れ麻の買い付けを行っていたようです。本宿は大きく上宿、中宿、下宿と3区に別れ上宿の中間あたりからは、さらに脇道が伸び信州まで繋がっていました。
安永年間(1772〜1781年)、寛政年間(1789〜1801年)、明治時代と大きな火事が3度あり、特に明治の火災後は同時期に建て替えられた為、木造2階建て(鏑川側から見ると3〜4階建て)、切妻、平入りの建物にほぼ統一された町並みが形成されています。中心部には土蔵の袖蔵を持つ大型な町屋も散見できますが、多くは2階部分に手摺が張り出す旅籠風の建物が多く宿場町の雰囲気を今に伝えています。
歴史的には、水戸藩尊皇攘夷派で結成された水戸天狗党の宿営所だった場所で元治元年(1664)11月15日、下仁田戦争で幕命を受けた高崎藩(藩庁:高崎城)に勝利した天狗党は16日に本宿に入り首領格である武田耕雲斎、藤田小四郎などが名主である神戸家(双渓堂)に宿泊し、残りの党員達は分かれて旅籠などを利用しています。現在でも古い町屋建築が軒を連ね宿場町らしい町並み景観が保持されています。
本宿:上空画像
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