七日市藩概要: 七日市藩の藩祖である前田利孝は加賀藩100万石の藩祖前田利家の5男として生まれ幼少時に徳川家に人質に出された人物です。慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死没すると、前田利家と徳川家康の派閥が激しく対立するようになりますが、慶長4年(1599)に前田利家が死没すると形成は大きく徳川家康に傾きました。すると、徳川家康は利家の跡を継いだ前田利長の排斥を画策し、事実無根の家康暗殺事件をでっち上げました。前田利長はその圧力に屈し、芳春院(利家の正室「まつ」)と前田利孝が江戸に人質として出され、さらに縁戚関係を結ぶ事で決着が着きました。前田利孝は本多康俊の娘を正室に迎えるなど親徳川家的な立場を貫き慶長19年(1614)から慶長20年(1615)に行われた大坂の陣の際にも徳川方として戦功を挙げたことで元和2年(1616)に1万石を与えら七日市藩を立藩しています。以来、明治維新まで七日市前田家が藩主として世襲します。七日市前田家は駿府城(静岡県静岡市)や大坂城(大阪府大阪市)の守備役などを務めるも幕府の要職には就けず石高が低かった為、経済的には逼迫し形式的には独立していたものの、事実上の本藩である加賀藩から度々援助を受けています。
【 七日市藩とシーボルト事件 】−江戸時代後期の文政11年(1828)、ドイツ出身の医師で博物学者だったシーボルトが帰国の際、幕府禁制の「大日本沿岸輿図全図」を持ち出そうとしていた事が発覚し、国外追放処分となりました。協力者だった幕府天文方・書物奉行の高橋景保をはじめ、関係者数十人が捕縛され重い処分を受けました。その中の一人「稲部種昌」はシーボルトの通訳だった人物ですが、通訳を通じて禁制の品々が取引されるのを知りうる立場だった為、事件に連座し七日市藩に預けられ永牢処分となりました。七日市藩では事態を考慮し新たに牢屋を設けて、一般の罪人とは異なる待遇を処したそうです。幕府からは、接見を禁じられたものの稲部種昌はシーボルトから知りえた蘭学や西洋医術にも長けていた事から、七日市藩では藩医である畑鉄鶏を密かに接見させ多くの知見を得る事が出来ました。天保11年(1840)、稲部種昌が死去すると、藩に大きな恩恵をもたらした事から10代藩主前田利和の計らいにより、罪人だったにも関わらず、城下にある金剛院に手厚く葬っています。
【 七日市藩の幕末・戊辰戦争 】−幕末の元治元年(1864)11月15日、水戸藩脱藩浪士が主力の天狗党が下仁田街道を南下し領内に迫った際、戦いを避け、さらに陣屋の前を通し面目を失う事を恐れた藩士の一人が永心寺まで出向き、戦争する意思がない事を告げ、脇道を教えて事無きを得ました。さらに、天狗党の追討の任を受けた高崎藩と小幡藩と共に貫前神社で今後の協議を行い、先陣を求められたものの「拒否」、後詰となったものの、結局七日市藩は下仁田戦争には参加せず、高崎藩兵に大きな犠牲(戦死者36名)を払う遠因となっています。戊辰戦争の際は新政府軍に属した為、高崎藩、吉井藩と共に倉渕口に出兵、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗上野介を捕縛、その後、上州諸藩と共に三国峠に出兵し会津藩と交戦、峠直下にある永井宿(群馬県みなかみ町)には安中藩と共に、兵糧米282俵を預けた証文が残されています。明治維新後も七日市藩は存続しましたが明治4年(1871)に発令された廃藩置県により廃藩となっています。
七日市藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 前田利孝 | 1616〜1637 | 1万石 | |
2代 | 前田利意 | 1637〜1685 | 1万石 | |
3代 | 前田利広 | 1685〜1693 | 1万石 | |
4代 | 前田利慶 | 1693〜1695 | 1万石 | |
5代 | 前田利英 | 1695〜1708 | 1万石 | |
6代 | 前田利理 | 1708〜1756 | 1万石 | |
7代 | 前田利尚 | 1756〜1782 | 1万石 | |
8代 | 前田利見 | 1782〜1786 | 1万石 | |
9代 | 前田利以 | 1786〜1808 | 1万石 | |
10代 | 前田利和 | 1808〜1839 | 1万石 | |
11代 | 前田利豁 | 1840〜1869 | 1万石 | |
12代 | 前田利昭 | 1869〜1871 | 1万石 | |
【 妙義神社 】−七日市藩の藩主前田家は本家である加賀前田家と同様に祖霊とされる菅原道真を篤く信仰しました。その為、領内に鎮座している有力な神社で、菅原道真の御霊が合祀されている妙義神社を庇護しています。
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