七日市陣屋(富岡市)概要: 七日市陣屋は元和2年(1616)、七日市藩の藩祖前田利孝によって築かれたのが始まりで、明治維新まで12代七日市前田家の居館、七日市藩の藩庁として機能しました。前田利孝は加賀100万石の前田利家の五男として生まれ、慶長4年(1599)に利家が死去すると豊臣家の家臣団が分裂含みの対立が激化し、そのような中で長男である前田利長が徳川家康暗殺の嫌疑が掛けられた事で加賀征伐が発令される為、徳川家に忠誠を示す必要にかられ芳春院(利家の正室)と共に江戸で人質になりました。
利孝は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川秀忠に属して出陣し戦功により上州甘楽で1万石を与えられ、七日市藩を立藩、富山藩(富山県富山市)や大聖寺藩(石川県加賀市)とは異なり加賀藩(石川県金沢市)から領地を分知されていない為、形式的には完全に独立していましたが、小藩だった事もあり次第に加賀藩の支藩的な扱いとなりました。
陣屋での大きな戦闘行為はありませんでしたが、天明元年(1781)に発生した上州絹一揆(絹運上騒動)では打ち壊しの対象となり農民達が押し寄せ攻撃されています。
【 七日市陣屋の縄張り 】−七日市陣屋は約100m四方で東側と北側には水堀、西側と南側は空掘を廻らし、高さ1.8mほどの土塁の上に1.5mの塀を築いていたとされ、敷地内には藩主の居館や藩行政施設、家臣の宅邸が軒を連ねていました。南と西側は鏑川、北側は高田川が天然の外堀に見立て、東側には前田家縁の永心寺や金剛院を配し防衛線としています。又、陣屋から北東にあたる方角に聳える崇台山の中腹に境内を構える長学寺を鬼門鎮護の寺院として想定したと思われ、歴代藩主の菩提寺としています。さらに陣屋北西隅には裏鬼門鎮護として前田利孝の供養塔が建立されています。
【 遺構・移築城門など 】−明治維新後に廃城となり多くの施設は取り壊しや払い下げとなり大部分の敷地は富岡高校の校庭となりました(大手門、裏門、南門の移築城門が現存しています)。現在は建物は天保12年(1841)の火災で焼失後の天保14年(1843)に再建されたもので御殿の玄関(入母屋、桟瓦葺、妻入、式台付)と書院(木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入)の一部、中門(黒門:切妻、桟瓦葺、薬医門、一間一戸)が移築保存されている他、御殿山と呼ばれた櫓台や土塁の一部が残っています。
七日市陣屋の正殿(書院)と中門(黒門)は「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成30年(2018)に国登録有形文化財に登録されています。
又、隣地には前田家が崇敬した蛇宮神社が鎮座し、土塁(七日市7号古墳)の頂部には江戸時代後期の天保10年(1839)に建立された前田利孝の供養塔(前田家御宝塔:富岡市指定史跡)が残されています。
七日市陣屋:上空画像
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